| 2008年03月06日(木) |
年寄り集団に囲まれて、、、 |
今朝の橋本日記から一部引用である。
先日、精神科医の和田秀樹さんの本を書店で立ち読みした。そこに、「老化は記憶力ばかりではない。その前に、感情の老化がはじまる」と書かれていた。なるほどと思った。 (中略) それではどうしたら、私たちは「感情の老化」をふせいだらよいのだろう。「人は歳月を重ねたから老いるのではない。理想を失うとき老いるのである」とは、アメリカの詩人であるサミエル・ウルマンの言葉だ。彼の言葉はこう続いている。
<七十歳になろうと十六歳であろうと、人間の心の中には驚異に対する憧憬や、星や星のようにきらめく事象や思想に対する驚きや、不屈の闘志や、未知なるものに対する子供のような好奇心や、人生の喜びおよび勝負を求める気持が存在するはずなのだ。大地や人間や神から、美しさ、喜び、勇気、崇高さなどを感じることが出来るかぎり、その人は若いのだ>
きょう、単位認定に関する会議があった。 今の学校で、職員会議で闘うのはたいへんだ。 意見をぜんぜん言わずだんまりを決め込む教員が多いからだ。 雑談ではあれこれ言うが、会議の席、管理職の前では意見を言わない。 つまり、私や他のひとり二人の発言者が間を置いたら、 さっと先に進んで、議事をそのまま認めた、ということになってしまう。
前任校でもその前の学校でも、こうして頑張っていると援護があった。 さらに、管理職や担当だけでなく、あちこちから我々への反論もあった。 今の学校ではどちらからの意見も出ない。 それでいて、事務的手続きについての質問は、些細なことまで次々に出る。 心配性の事務屋の集団に成り下がってしまっている。 教育をどうするかという問題になると、もう議論できない。 他に意見を言ってくれる人はいないから、教頭は言う。 「あなたはそう思うわけですね。ひとつの意見ですね」 確かにそれは私自身の意見だが、同意見の人は他に何人もいる。 しかし、○○さんも△△さんも□□さんも××さんも同意見だ、などと 会議の席でこちらから言うわけにもいかない。
しかし校長のきょうの考えを制度にしてしまうのは許せないのだ。 校長の言い出したことに反対できない、と考えるのは精神の老化現象だ。 今までに誤った判断をごり押しした校長を3、4人見てきている。 ひどい結果になってしまった前例である。 きょうのところは一定のところで引き下がったけれど、まだ諦めない。 校長が提案する理由はよくわかっているので、校長には腹を立ててない。 私の闘いは、その背景にある、現場を忘れた県教委という集団との闘いだ。 現場を忘れ、自己保身に汲々として、教育の指導者を自称している 教育界の諸悪の根源との闘いだ。 私がもっとも腹を立てているのは、現場で苦労しているのに、 県教委の理不尽な「御指導」から来る理不尽な運営方針に、 何でもかんでも従うしかないと首を垂れている教員たちだ。 よぼよぼの奴隷集団だ。
前々任校では教育会の老人によく言われたものだ。 「それは正論だろうけど、、青いなぁ、、、もっと大人にならにゃいかん」 大人になるってのはどういうことだ? 理想を捨てた廃人になれってか? と反論したりもしたものだ。 理想と言っても大したことではない。 今、目の前にいる生徒たちのために一番いいのは何かを考える、 たったそれだけのことだ。 何を教えるべきかを真剣に考え続ける、たったそれだけのことだ。 歳をとり、経験を積めば積むほど、それが見えやすくなる。 教員は、歳をとるほど精神的に若くならなきゃいけないのだ。 「真剣に考えることをやめたら、たとえ20歳でも老人だ」とは、 私の高校時代の日記の一文である。
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