| 2008年01月25日(金) |
「エジソンの母」の問題提起 |
「エジソンの母」を毎週見ていて、今夜は第3話。
参観授業の道徳の授業で、こんな物語を演技入りで行う。 ウサギが橋を渡ろうとするとオオカミが現れて、 「もどれもどれ」と威張ると、ウサギが引き下がって行った。 オオカミはこの意地悪がおもしろくなり、 キツネにもタヌキにも意地悪して楽しんでいた。 ある時、オオカミが同じことをしようと橋を途中まで進むと、相手はクマ。 さすがのオオカミもこれは分が悪いので「私が下がります」と言うと 「こうすればいいのさ」と、クマはオオカミを抱きかかえて反対側へ。 橋はひとりしか通れないけど、そうすればすれ違うことができるわけだ。 オオカミはこのクマの親切に魅せられた。 次にウサギと橋の上で会ったとき、オオカミはクマと同じことをした。 オオカミは、意地悪してたときよりもうんと気持ちがいいと実感する。。。
子どもたちに優しさや思いやりを教える教材なのだそうだ。
規子の授業は順調に進む。 子どもたちの反応も予想以上によい。 テキストに従った答えを言うだけでなく、感想が良好なのだ。 クマの親切な行動にはとりわけ子どもたちの反応がよかった。 クマさんかっこいい!! という感想があちこちで出てくる。 そして、いよいよオオカミがウサギと再会する場面である。 規子が「さぁ、オオカミはどうしましたか?」と問いかける。 子どもたちは、抱きかかえて渡してあげる、みたいに答える予定である。 テキストにはちゃんとそう書いてある。
しかし、賢人は答えた。「食べます!!」 その瞬間は拒絶反応を示す子もいたが、「自然の摂理だからです」で始まる 賢人の説明にだんだんと共感の輪が広がった。 授業は道徳でなく理科に変わってしまった。 確かに、本物のオオカミとウサギだったら、意地悪も親切もない、 ウサギはオオカミの獲物となるだろう。 こうして規子の「橋の上のオオカミ」の授業は台無しになった。
私は、授業というのは予定どおり進まないのが当たり前と思っている。 しかし、現代の教育界では、計画や予定が重視されている。 教育実習や研究授業では、指導案どおりの展開が期待され、 年間指導計画だのシラバスだの、、、まったく困ったものである。 授業が予定どおり進むのは確かに気持ちよい。 しかしそれは教師の自己満足になるだけで、 実は個々の生徒を見ていない証拠になる場合が多いものだ。 年間のシラバスなんてのは、学生に目を配らない大学の先生にしか書けない。 もちろん、集団相手の授業なんだから、ある程度の計画は立てる。 個々の授業の予定も立てるし、年間の大体の構想も立てる。 しかし、生徒の反応によって、軌道修正は頻繁に行わざるを得なくなる。
良い授業の基本条件というのは、計画どおりとか予定どおりでなくて、 子どもの予定外の反応や突発的な言動に対し、 プラスになるように応えられるかだ。
ところがこのドラマの授業では、テキストに従った猿芝居授業だったので こういう賢人の「食べます」的な意見は想定していなかった。 授業は大騒ぎになり、話を元に戻せなくなった。 しかも、規子の元婚約者の大学准教授も参観していて、 授業の展開に感激の声をあげたので、ますます大騒ぎになってしまった。
参観に来ていた親たちはカンカンである。 賢人がいるようなクラスに自分の子どもをいさせたくない、と、 賢人追放を願って抗議行動に出る。 ちゃんと道徳心を教えてもらわなきゃうちの子はどうなるんです!! みたいな、ちゃんちゃらおかしい発言まである。 それに対して、ドラマの中の教員たちはペコペコ詫びるばかり。。。
教育ということを誤解している親たちの苦情に、 教育に携わる者たちがペコペコする、、、これがまず、 教育を堕落させている元凶である。 仮に、教育現場(個々の学校)が、ある信念をもって苦情を突っぱねても、 教育委員会がペコペコして、その現場に圧力をかける。 これがさらに教育を堕落させる元凶である。
さて、好奇心も探求心も旺盛な代わりに、問題児の烙印を捺されかねない 賢人を、学校の中で本当に生き生きと育てることは可能なのだろうか? そういえば、エジソンもアインシュタインも学校になじめなかったか、 学校から排除されたかで、退学になったのではなかったか。。。
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