東野圭吾の、854ページもある持ち歩くのもたいへんな文庫本である。 きょうの夕方やっと読み終わった。 といっても、読み始めたのがいつかわからない。 先月の12日に、帰る途中喫茶店で本を読んだことが書いてあるが、 この時は、久々にこの「白夜行」を開いたのだった。 最初の数十ページを読んでから、なかなかゆっくり読む時間が取れず、 それを読みたくて寄ったのだった。 それからコンクール関係の仕事もあったし、試験もあった。 まとまった時間が取れるときは、DVDの視聴に時間をとった。 若いころは、身の回りにものが少なかったので、 ひとつのことに専念しやすい環境にあったのだけれど、 今は、仕事も多岐に及んでいるし、いろんなものに囲まれていて、 本を読み始めても、なかなか一気に読んでしまうことができない。
それでも、登場人物の印象が強いせいか、 しばらく離れていても、すぐにその世界に帰って行ける。
この雪穂の存在感はなんだ? 小説全体の中で、そう多く登場するわけではない。 登場したときでも、雪穂の位置から描かれることはない。 実際のところ、何をどう考え、感じているか、そんなことは描かれない。 彼女はいつも脇役に過ぎない。 しかし、物語のさまざまな出来事に、常に影のようにまとわりついている。 出番も少なく、中心として描かれないのに、主役のようだ。 雪穂よりもうんと出番の多い桐原も、中心として描かれることがない。 また、桐原と雪穂が共演する場面もない。 それにもかかわらず、桐原という助演男優を通じて、 ヒロイン雪穂の真実が描かれているような印象を受ける。
桐原の言葉の中に 「おれの人生は白夜の中を歩いてるようなものやからな」とある。 解説者(馳星周という知らない作家だが)はこう書いている。 「幼いときに落ちた落とし穴から這い出ようともがく二人には、 決して明るい昼の光は当たらない。 白夜のように曖昧な薄暗い光が二人の行く手を照らすだけだ。 その道行きは、暗く、おぞましく、利己的で、 だがそれゆえに哀切を帯びている。 読む者の心を、鋭いナイフのように抉る」 これは実に的確な表現ではないかな、と思う。 作者は、まさにこんな光の当て方で、主人公たちを描いているのだ。 実に、小憎い描き方である。
雪穂も桐原も、わるいやつらであるらしい、、、 良識的な登場人物たちもそれに気づいて危険視する、、、そう思いつつも、 がんばれ、がんばれ、と思いながら読んでしまう。 私はすっかり作者の仕掛けた魔力にかかってしまっている。 そうして、物語の終盤になって、彼らを白夜に彷徨わせたのが、 卑劣なじじいや、自分勝手な親たちであることを知らされるわけだ。
常に哀しみの漂う、壮大なる静かな物語であった。
余韻も覚めないうちに、「幻夜」を読み始めた。 阪神大震災や地下鉄サリン事件などを描いていて、もう夢中になった。
|