そういえば、私はもう長いこと、通夜というものに出ていない。 思い出せるのは、もう24年ほど前、定時制の学校にいた時に、 自殺した先生と生徒の2度の通夜だったが、仕事が終わってから、 10人に満たない職場のみんなと出かけ、時間も遅かったためだろうが、 遺族としみじみと故人を偲ぶ、みたいな通夜だった。 もともと、それほど多くの人が弔問に来ていなかったのだろう。
前任校で、同僚が相次いで病死したことがあった。 この時は、どうも通夜にまで顔を出したという覚えがない。 いや、1度は通夜に行ったけれど、駐車場整理の仕事があったのかも。。。 とにかく、葬儀の記憶はあるけれど、通夜の記憶はない。
私は、いつからか、直接知っている人以外の葬儀には関わらなくなった。 同僚の家族の葬儀には、せめて通夜に顔を出すとか、 通夜にも葬儀にも出なくても、香典くらいは連名でも出すのが常識らしい。 しかし、それすらもしないことにした。 とにかく、今まで何の関わりもなかった人なのだ。 お別れを言いに行く気持ちなど起こりようのない人の場合に、 とりあえず金だけ包んで誰かに持って行ってもらうというのも虚礼の極致。 わずかばかりの金のために、煩わしい整理をしてもらうことになるわけだ。 ・・いやいや、そういうものではないのだよ、と、 世間の人たちは、私のそういう考え方に説教をするに違いない。 香典さえ出さない同僚を、水くさいやつと思う人もいるかもしれない。 しかし、私は、意味のない行為と思い始めると、もう行動できなくなる。
さて、きょうは、通夜のようすをほとんど受付席から客観的に眺めていた。 通夜というのは3〜4時間か一晩中のうちに、時間になどそうこだわらず、 ぽつぽつぽつぽつと弔問に訪れるものだろうと思っていたら、 通夜式開始時刻の30分ほど前から列ができ始め、それがどんどん長くなり、 我々の、比較的少ない「町内・一般」の受付でも列の解消に1時間かかった。 6時に始まった通夜式は4、50分やっていたが、 会場はもうひどい人混みで、たいへんにぎやかな落ち着かない光景。。 とにかく、新聞に訃報が載るほどの人物なのだ、県外の新聞にも。。。
本来の通夜は、故人と親しい関係・深い関係にあった人が集まるものだった。 時間はどうあれ、駆けつけるべき人が駆けつけるものだったのだ。 しかし、時代は変わった。 昼間の葬儀には仕事を休めないから出られない、また、 昼間の葬儀に仕事を休んでまで出る関係でもないから、 せめて通夜だけには出てとりあえずの挨拶をしておこう、の傾向になった。 つまり、名称は違うが、実質は、葬儀が2回になったに過ぎない。
世間の虚礼尊重が、遺族を一層たいへんな思いにさせているのではないかと思う。
ちなみに私は、私が死んだら葬式はしないように遺言してある。 誰も呼ばなくてもいい、家族だけが見送ってくれればいい。 通夜とか葬儀とか、何回忌とか、そんな苦労はしなくてもいい。 万一弔問の希望があったら、わざわざこんなところまで来なくても、 心の中や記憶の中にいる私に冥福を祈ってください、と言えばよい。 人間は、死んだら天国も地獄も極楽もないし、迷妄も成仏もない。 死んだらもうそれだけ、、、無だ。 もしも、死んでも生き続けられるところがあるとしたら、 それは親しくしてきた人たちの心の中だけなのだ。
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