高校の卒業式は1週間前に終わってしまったが、 朝のラジオで鈴木杏樹が今週は「卒業式の歌」をテーマに話しているので、 毎年思っていることを書いておこう。
去年の校務委員会で、卒業式の段取りの議題が出たときに、 本当に「仰げば尊し」を生徒に歌わせなきゃいけないのか、と、 問題提起したのだが、結局、歌わせないのは寂しい、というだけの理由で 多数派に押し切られてしまった。 私は「意見」を述べたのだが、「雰囲気」に負けてしまった感じだ。 学校の会議なんて、その程度のつまらない議論で進んで行くものだ。
私が今勤めている高校周辺の地域の小・中学校では、 まだ「蛍の光」や「仰げば尊し」を歌っているところがわりと残っているが もっと広く見れば、もうそんな歌は捨てて 別の合唱曲を歌っているところの方が多数派であろう。 この保守的な地域でさえ、歌ったことがないまま高校に入っている生徒が いるくらいである。
冒頭の詞の意味はわかりにくい。 「仰げば尊し 我が師の恩」これを私は口語訳することができない。 「仰げば」というのが、どういうことなのか、引っかかってしまうのだ。 「我が師と仰ぐと、先生たちの慈しみは尊いぞ」という意味だろうか? それを「歌え!歌え!しっかり歌え」とは何と恩着せがましいことだろう。 恥ずかしくてやってられないじゃないか。
2番も生徒に歌わせている。。。 「互いに睦みし 日ごろの恩 別るる後にも やよ忘るな 身を立て 名を挙げ やよ励めよ、、、」 これって、誰のセリフ? 先生の方からの言葉なんじゃないの? それとも、生徒同士がお互いに鼓舞激励しあっていると解釈すべきだろうか? ・・・それにしても、「身を立て名を挙げ」なんて、 現代にふさわしい道徳じゃない。 立身出世主義なんて、明治から戦前までの古い観念じゃないか。
教師の集まりが、なぜこの歌を大事そうに守っているのか、不可解だ。
中学の卒業式で、私は「仰げば尊し」を一生懸命歌った。 歌詞の内容なんてまったく考えていなかったせいでもあるだろう。 しかし、それだけでなく、ひとつには、 3年間を通じて、みんなが仲間だし、協力して事を成す、という教育が 徹底していたし、私自身がそういう中でのリーダー的存在の ひとりでもあったからだ。 私自身も一生懸命歌ったし、ほとんどの生徒が一生懸命歌った。 練習も、音楽の時間、全体練習の時間と、かなり費やされた。 もうひとつの理由もすごく大きい理由なのだが、 三部合唱だったか四部合唱だったか忘れたけれど、 低音パートを歌えばよく、音域的に歌いやすかったからである。 主旋律どおりに歌わされたら、「この年月」とか「別れめ」のところなど ぜんぜん声が出なくなってしまうから、イヤになってしまう。
高校の卒業式ではどうだったのか、まったく記憶がない。 2月1日から学校を休んで、次に登校したのが卒業式当日だった。
高校の卒業式なんて、証書授与だけで終わっていいぞ、と私は思っている。 「歌いたい」「この歌を歌って卒業したい」という要望が 生徒たちから出たときは、望む歌を歌わせてあげればいいだろう。 感謝の言葉を言いたい生徒がいれば、言わせてあげればいい。 祝辞を言いたい教員や保護者がいれば、言わせてあげればいい。 そういうのがないなら、証書を手渡して、はい、おめでとう、おしまい! お定まりの式次第などに従う必要はない。 卒業証書授与式なのに、授与の後の苦痛の時間が長すぎる。
既成観念からいったん離れて眺めてしまうと、 どうだかなーー、、、と思うことばかりである。 とりわけ、おかしな歌をむりやり歌わせることにはどうだかなーである。 しかし、ほとんどの教員にとって、 国歌斉唱→授与→校長式辞→来賓祝辞→送辞→答辞→送別の歌→校歌 という流れは、不可欠で自然な流れにしか感じられないようだ。 もちろん、そういう世界で仕事している私は、 そのように予定された行事が滞りなく行われるように、 自分の考えは捨てて全面協力するしかなくなるわけであるが、 毎年毎年、冷めた思いで卒業式の成り行きを見守るはめになる。 幸い、生徒たちもそう文句を言うこともなく、 たとえ歌わなかったにせよ、晴れ晴れとした表情で去って行ってくれるから とりあえずはそれが救いになっている。
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