昨夜、一昨日届いた「4400 シーズン2」を見始めた。 きょうも、続きを数話一気に見たかったが、なかなかそうは行かない。 娘の車の初回点検をしないまま2カ月も過ぎてしまったので、 午前中にそれを車屋に持って行き(娘はバイトで朝から出かけてた)、 本屋にも寄り、スーパーで食料品を買い込んで帰った。 最近、平日の食事については、買い物も作るのも娘に任せっきりなので、 買い物もかなり苦手になって、やたらと時間がかかるようになってしまった。 帰宅後は、採点と昼寝である。 夜の10時過ぎまでに、4時間余りは採点できたかな。。。
車屋で点検が終わるのを待つ間も、一昨日から読んでいる 「日本語学のしくみ」(加藤重弘)を読んでいた。 「日本語文法のしくみ」(井上優)もそうだったが、 幅広い用例で、いろいろな学説を紹介しつつ、 慎重な展開をしているので、今の私には実に心地よい語学書である。 知識もだけど、考える材料を次々に与えてくれるのである。 私は正月以来、橋本さんが書いていることに対し、 (それは彼の論に限らず、多くの人に認められた説に対してでもあるが) こういう場合はどうだ、またこういう場合にもそう言えるのか、みたいな そんな風に言っちゃって、ホントに真実と言えるの? という問いかけを しばしばやって来たわけだが、今読んでいる「日本語学のしくみ」の用例は 私がまだ思いもしないような用例を挙げて分析していくのでおもしろい。 きょう読んだところでは、「〜は」と「〜た」の分析がおもしろかった。
店の片隅のテーブルで本を読んでいると、時々中断させられる。 話しかけられたり、新しい客が妙に騒々しかったり。。。 そんなのがきっかけで、パラパラと前のところをめくってみたりする。 一昨日読んだ、最初の方を読み返した。 そういえば、一昨日はこのことについて書こうとしていたことを思い出した。 イル・ディーヴォのライヴの印象で忘れてしまったのだ。
この本の最初は、「日本語は世界的に見て『変わった言語』か?」である。 そりゃあ、文字を見れば、実に特異な言語だと、私はずっと思っている。 その上、つい先日まで、語順も「変わった言語」だと思っていた。 しかし、先日考えを改め始めた。 こっちの方が自然で、SVOの方が作為的でいびつなのではないかと。。。
世界の言語のうち、半数近くはSOV型なのだそうである。 SVO型は3分の1程度なのだそうである。 Vが先に来る言語も1割方あるそうである。 Oが先に来る言語はきわめて少ないそうだ、、、があるらしい。 紹介されてないが、語順など定められない言語もあるのかな?
私が悩んだ点であるが、この人はさらりと書いている。 SVO型では前置詞を使うことが多く、 SOV型では後置詞を使うことが多い、と。。。 英語の形容詞は名詞の前に置かれるのが普通だけれど、広く見れば、 SOV型では名詞の前に形容詞が置かれることが多く、 SVO型では名詞の後に形容詞が置かれる傾向がある。 これはフランス語を勉強し始めた時に驚いたことのひとつだ。 何で形容詞が後に来るの?(常にではないが)という風に。。。 これと関連して、 前置詞言語では「〜の」が後に置かれ、後置詞言語では前に置かれる、 これは当たり前なんだけど、 英文法で言う「関係節」に当たるものが、後置詞言語では前に来る、 つまり、関係詞などいらない連体修飾関係で済んでしまう、、、 この点など、何と合理的ではないか! もっとも、日本語の古文にも、この英語の関係詞とそっくりな 「同格の『の』」というものがあった。
そうして、さらに考えた。 昔は「え行かず」などと言った。 「え」は助動詞ではないけれど、「can」と同じ位置である。 「何をしようか」と言う時に「何をかせむ」と言った。 「道長はいるか」と言う時に「道長やある」と言った。 これは質問だぞ、ということを示すために、 質問だということを動詞の前に明示したのである。 今から思うと、実にめんどうな手続きをしていたものである。 この構造は、SVO型言語の精神と似ている。 しかし、千年近い変遷の中で、日本語はこういう語法を捨てた。 そして、最後まで聞かないとわからない、聞き手にとって要領の得にくい 言語へと成長し続けているのだ。 しかし、古代の日本語は決してそんな精神ではなかった。 後置詞言語であり、結論先延ばしの宿命を負わされながら、 できるだけ聞き手にも親切な語法を取っていたと言えるのではないか? しかし、生活形態が複雑になり、人々が忙しくなるにつれ、 「語りやすさ」が優先されるようになるのだ。 それは日本語だけではない。 SVO型だって、語りやすさ、聞きやすさの代償として、 そういう語順が定着してきたに違いないのだ。
まったく違った言語体系でも、意識の基本は大差ないようだ。
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