TENSEI塵語

2007年02月07日(水) 読書指導とは?

校誌の元寇を書かなきゃいけないが、なかなか書けなかった。
今夜は何となくこんな文章を書いてしまった。
校誌に掲載する図書主任の文章として相応しいものかどうか疑わしいが、
私はこういう文章しか書けないのである。
これはとりあえず、ばーーっと書いたものである。
今はもう酔いが回って、読み返して整理する気も起こらない。
これを下書きとして、2日ほどで手直しして原稿にしようと思う。



        読書指導とは?
                
 読書は大事だとよく言われるわりには、読書は案外大事にされていないものである。
 読書はあらゆる学習の基本である。そういうことをたいていの人が知っている。読書をあまりしないで成長してきた人でも、そういうことはたぶん認めている。
 その認識が、漢字や語彙、それから文章の流れや組み立て方をたくさん身につけることができる、という程度のものであっても、あらゆる勉強の基本だと言うに値する。それだけでも大きな読書の効用なのだ。
 読書はまた、さまざまな人間と接する機会でもあるし、さまざまな考え方と対話する機会でもある。優れた本ほど、人間を深く描いているから、そういう作品を読めばより人間を理解できる可能性があるし、優れた本ほど長く深い思索の末に書かれているから、より深い思想と対話することにもなる。
 しかし、それは読書だけの良さではない。映画にもそういう面は大いにあるし、テレビのドラマやドキュメンタリー番組などにもそういう点では侮れない優れたものがいくらでもある。そういうものを見る方が、長い時間かけて一冊の本を読むよりも、労少なくして益が多いのかも知れない。
 それでも、読書は古今東西、大切な営みと認められてきたのだ。もちろんそれは、文字や語彙や文章に関する能力を身につけ、理解力や思考力を育てるという良さがあるからだが、それだけではない。先の映像作品を見るのとはまったく次元の異なる、読書ならではの良さがあるのである。
 それは、読書が全面的に能動的な行為だという点である。
 小説よりも漫画はわかりやすい。映画やドラマもわかりやすい。だから若者たちは漫画や映画に流れがちである。わかりやすさという点では、本はもうまったく存在価値を失ってしまう。映画やドラマやドキュメンタリー番組は、こちらが何の努力もせずに、
先へ先へと展開していく。たとえこちらがぼんやりして、見るのも聞くのもやめてしまっても先に進んで行く。我々はそれを理解するために頭を使うけれど、視覚的刺激も次々に与えられながら、導かれるままに後をついて行くだけで済む。漫画も、視覚的イメージに多くを頼りながら、少ない文字を読んで行くだけである。漫画も、何も読まないよりは読んだ方がましである。
 読書というのは、それらとは次元の違う行為である。視覚的な助けはない。文字も、自分が読まなければ入って来ない。自分が先へ先へと読み進めなければ、先に進まない。自ら読み進めつつ、イメージを作り上げたり、文章の流れや意味の流れを自分の中に再構成して行かなければならない。
 読書ならではの効用というのはこういうところにあるのだろうと思う。自ら言葉の情報を得つつ、想像力や構成力を働かせて行くというところである。
 だから、読書はあらゆる学習の基本である。文字や言葉を覚えられ、言葉の自然なつながりを身につけられ、読解力が育てられるだけでなく、能動的に自ら理解する姿勢や、想像力・構成力が養われ、関連づけたりまとめたりする力も育てられる・・・・もっとも、読書をしなければそういう力は絶対に養われないというわけでなく、そういう点での読書の役割は大きいということである。
 読書はすべての学習の基本であるし、それ以上のものである。(それ以上というのは、単に知識や思考のようなものにとどまらず、情操というものも含めて育てる可能性があるからである) もちろん、そういう効用は目に見えにくいし、読書をすればいわゆる成績も上がるというわけではない。教科の学習成果である成績を上げるためには、その教科の勉強をしなければならないことはもちろんである。また、読書をすればするほど、深い思考ができるようになるとか、いい文章が書けるようになるとか、そんな短絡的なものでもない。どんな本を読むか、どんな読み方をするかによっても頭脳の様相は変わるから、いわゆる刺激−反応式の短絡的な見方は禁物である。

 我々国語科の教員は、若いころからしばしばいろいろな愚痴を聞かされてきた。教科書が読めん、文章が読めん、漢字が読めん、言葉を知らん、日本語を話せん、日本語を書けん、・・・・おーい、国語の時間にもっと日本語教えてやってくれー、という愚痴である。もちろん、国語の授業で扱える日本語なんてわずかな部分である。その愚痴は、もっと本を読んでもらわなきゃどうしようもない、という思いの一表現である。
 それにもかかわらず、教育現場では、読書指導を学習活動に組み入れることに消極的である。
 6年前の12月に、「子どもの読書活動の推進に関する法律」が公布・施行された。子どもの読書活動の「環境整備の推進」ということが強く意識された法律である。読書の必要性が国政レベルでも認められることになったわけだ。
 しかし、その法律で定められた具体策は「子ども読書の日」(4月23日)であった。それだけのことなのである。年に1日の読書の日というわけである。以前からあった、文化の日前後2週間の読書週間よりも弱い具体策である。それも、推進する日を定めただけのことであって、教育活動の一環にまで高めるわけではない。
 教育現場の常識では、読書指導とはPRでしかない。この日はできるだけ読書をしましょう、さあ、読書週間だから読書に親しみましょう、こんなおもしろい本があるから読みましょう、若いうちにできるだけたくさん本を読んでおきましょうね・・・・PRをどれだけ熱心にしたかが、どれだけ熱心に読書指導したかの評価になる。
 しかし、運転免許証を持っていない人にいくら車の宣伝をしても無意味なように、また、独り身で恋愛から見放されている男性にハンドバッグの宣伝をしても無意味なように、読書などかけ離れた生活をしている者にいくらPRをしてもほとんど無意味である。
 学習指導が実際に勉強させることであるのと同様、読書指導も実際に読書させるのでなければならない。しかも、年に1度とか、期間限定などではなく、日常的な関心事にすることである。そういう中で数々の「お薦め」が生きるのであって、いくら「読め、読め」と連呼しても、「勉強しろ」がなかなか生徒の心に響かないのと同じく、空しい連呼になってしまう。
 しかし、教育現場では、読書指導を学習活動として具体的に組み入れることに消極的である。それはなぜかと言うと、読書は趣味、という感覚も拭えないからだろう。勉強が趣味という人はごく稀だけれど、読書が趣味という人は案外多いものだ。
 読書は学習の基本だけれど、読書自体は趣味。そういう矛盾しているとも言える感覚に支配されて、いつまでも虚しく混迷と徒労を続けているのが、読書指導の現実なのである。


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