| 2007年02月01日(木) |
「日本語は人間をどう見ているか」 |
寒い!!! 久々の冷え込みである。 本当に雪が降って、明日の朝はたいへんかもしれない。
さて、昨日の「日本語は人間をどう見ているか」(籾山洋介)だが、 要所要所を読み返しながら、物足りなさをメモしておこう。 この本は、例示部分とまとめの部分がはっきりしているからありがたい。
植物に関する多くの言葉、たとえば、「芽が出る」「花開く」「返り咲き」 「枯れる」「根を下ろす」「蕾のまま」「散る」・・・などなどが、 人間(の営み)について述べるのにも用いられる。 それを、人間の営みのさまざまな面に分類しつつ分析しつつ、 「人間を、植物を通して見る、という見方が日本人の頭の中に存在する」 とまとめている。
鳥に関する言葉についても同様である。 「巣立つ」「金の卵」「羽ばたく」「古巣にかえる」「愛の巣」「鵜呑み」 「鷲づかみ」「籠の鳥」「鳥肌が立つ」・・・などなど。 これのまとめも、 「人間を、鳥を通して見る、という見方が日本人の頭の中に存在する」 ということになる。
天気に関する言葉、、、「お天気屋」「気が晴れる」「顔が曇る」 「晴れやかな顔つき」「低気圧」なども同様である。
ところが、そういうところから、 「人間を、自然を通して見る」という結論には行くわけではない。 なぜなら、次に挙げられる事例は「機械」だからだ。 しかし、ここに挙げられた例はそれほどしっくりするものはない。 「機械」とか「ロボット」とか挙げられても、おもしろみはない。 「肩の故障」「足の故障」のように「怪我」を「故障」と言ったり、 「あいつ壊れちゃったぞ」みたいなのは、先の、植物や鳥の場合の例と 肩を並べる用例だとは思うけれど。。。
このあたりから、この人の「○○を通して見る」は、 いったい何のために唱えているのだろうと、疑問を抱き始めた。
最後は「想像上の存在」である。 「神さま」「女神」「仏」「悪魔」「鬼」「怪物」「幽霊」「化ける」。。 そして、これもまた「想像上の存在を通して見る」見方、、、である。
本論はここまでなのだが、「さらなる考察」として、他の生き物、天体、 地形、季節、、に関する言葉も挙げて、考察の範囲を広げている。
私が途中からがっかりしてしまったのは、 これは要するに単なる比喩表現集ではなかろうか、ということだ。 ああ、そうそう、こんな表現もあったなぁ、と読んでる分には楽しいが、 そこに深い意味を求めようとすると、かなりがっかりしてしまうのだ。
人間以外のものを通して人間を表現しようとするのが、 日本語に独自のものなのか、外国語にはほとんど見あたらないのか、 どうもそのあたりも定かでないし、 日本語は格別にそういう表現が豊かなのだとすれば、それは、 ズバリと言うことをできるだけ避けようとする言語習慣のためであろう。 言語構造からして、ズバリと言うことを免れやすい仕組みになっている、 実に根の深い日本語圏の精神構造によるものなのだ。 さらに言えば、そういう性癖の副作用として、 余情やイメージを大切にする傾向もある。 (和歌や俳句の修辞もそうだし、「雪国」の冒頭文が名文なのもそうだ。 きっちり語ることは日本語の美学ではないが、 しかし、そんな中で、的確な表現を求めるのである) 比喩的表現を好む一表現として「○○を通して人間を見る」と言っても いいだろうが、それは、あくまでもひとつの表現方法に過ぎない。 どう表現したところで、それは、言語とイメージの問題に返ることになる。
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