TENSEI塵語

2006年04月19日(水) 「春告鳥」と「空蝉」の解釈

もう何ヶ月も、稀に橋本氏が書き込んでくれるだけになってしまった談話室、
そこに、昨日、突然の新しいお客さんが現れた。
何と、私がまさしくんの歌詞について書いたところを読んで下さったようだ。
まさしくんの歌について連日のように書いていたのは去年の10月ごろだ。
そのうち本や映画やドラマについて書いたものと一緒に、
整理して、サイトの方にアップしようと思いながら、
なかなかその作業に取り組めないでいた。
塵語が検索に引っかかるとは思っていなかったが、
こんな半年前の記事を読んで挨拶してもらえたことに、まず感動した。

そのIchishu さんもまさしくんの歌詞の解釈を書いているそうで、
そのアドレスが付記されていたので行ってみた。
そして、まずその「春告鳥」の解釈を読んで驚いた。
とりわけ、この部分には驚いた。

「嵯峨野の竹林は、京都好きの私にとってもベスト3に入る場所である。
 私が行ったのは5月だったが、真夏のような日差しの強い暑い日だった。
 ところがこの竹林に一歩足を踏み入れた瞬間、
 全く別の世界に変化するのだ。
 うっそうと茂る竹林道は、ひんやりとした霊気を漂わせており、
 もやがかった空気に、無数の木漏れ日が差し込む
 まさに幻想的な世界なのだ。
 「ふりしきる葉洩れ日」という表現は、
 この風景を見た人にとってはまさに鳥肌のたつような描写である」

これは、「化野の古宮の嵯峨竹の 降りしきる葉洩れ陽」の部分である。
私がほとんど素通りしてしまった部分である。

なお、Ichishu さんは、この歌の主役を女性にしている。
これは、今までの私にはなかった視点だ。
私はずっと男の立場からこの歌詞を読んでいた。
しかし、ichishu さんは、主役は女性で、「その人」が男性だと言う。
だから、侘び助が水面に落ちて波紋の広がる場面をこう解釈している。

「池の中を覗き込んだ女性は、水の波紋に映る自分のゆがんだ顔を見て、
 平穏で幸せな日々がほんの少しのきっかけで
 いつか壊れる日がくるのだと確信し、
 それはもしかすると今なのではないだろうかという不安に襲われるのだ。
 (同心円に広がる紅の「紅」はここでは女性の口紅と解釈したが、
  もしかすると椿の「紅」あるいは鯉の「紅」かもしれない)」

私の想像では、彼らは池のほとりか、池のほとりの高いところにいるのだが、
この解釈では、池にかかっている橋の上にいるようだ。
私は現場に行ったわけではないが、橋の上というのがふさわしいのだろうか。
水面に映る自分の顔、、、云々はたいへんおもしろいと思った。
ただ、私はこれをおもしろいと思っても、
水面の波紋を普通に眺めている方がこの詩の情緒にふさわしいと思うし、
「拡がる紅」も椿と鯉の紅と取るのが自然だろうと思う。


何より驚いたのは、「空蝉」の解釈である。
老夫婦が待っている息子は、すでに死んでしまい、
駅の待合室で老夫婦の前に座っている「僕」がその息子の霊なのだと言う。
こんなことは考えたこともなかった。
ただ、息子が迎えに来ないからといって、この2人の抜け殻状態は
ちょっと不自然すぎるように思われていたのが、これだと納得がいきそうだ。
かつて熱い恋を守り通した2人が、今は抜け殻のようになって寄り添ってる、
その事情も、息子の死ということを思うとなるほどと思われるのだ。

以下、引用する。

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  足元に力無く寝そべった
  仔犬だけを現世(うつせみ)の道連れに

ここの部分ではタイトルの「空蝉」という漢字を「現世」と書き換えている。つまり、ここでの「うつせみ」は現世を表す意味に限定しているのである。そして「仔犬だけを道連れに」の、人間でなく動物であること、そして「だけ」という言葉が、この老夫婦の現世でのきわめて孤独な状態を強調している。
  
  小さな肩寄せ合って
  古新聞からおむすび

小さな肩を寄せ合っているこの老夫婦は、仲睦まじいのであろうか。そんなことは疑う余地もないだろうが、次の歌詞から微妙なニュアンスの違いが窺える。

  灰の中の埋火おこすように
  頼りない互いのぬくもり抱いて
  昔ずっと昔熱い恋があって
  守り通したふたり

  いくつもの物語を過ごして
  生きて来た今日迄歩いて来た

現在の絆の強さの所以は、ずっと二人で歩いてきたという運命共同体のような感情もあるが、なによりも、孤独感の共有から来ているのではないだろうか。この世の中での自分達夫婦の味方は息子以外に誰もいない、強いて言えば仔犬ぐらいだという孤独感。そしてそうした俗世間に対する疎外感や怯えが、必然的に孤独な二人の肩を寄せ合わせているのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、この老夫婦が息子の死を知っていたかどうかについて、
ichishu さんは、知らない、つい最近の思いがけない事情による死、
という線で解釈を展開している。
けれども、私は、彼が最後につけ足したオプションに賛成である

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実は、この詩の解釈にはもう一つのオプションがある。
それは、息子の死を、老夫婦は既に知っていながら、息子が迎えに来るのを毎日待っているという解釈である。決して気が狂っているわけではない。「息子が死んだ」ということを認めないことが、老夫婦の唯一の生きる支えだからだ。「駅で待つ」という行動によって、「息子の死」という現実から逃避し、自らの命を守っているのである。
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新しい観点が開けて、たいへん楽しいひとときになった。
いろんな意見が聞けるというのはうれしいことである。






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