TENSEI塵語

2006年02月01日(水) ジグゾー・パズル

朝刊の「声」(投書欄)に、ラファエロの「アテネの学堂」の絵に、
先駆者たちの息吹を感じるという思いを綴った文章があった。
この人が毎日見ている「アテネの学堂」はジグゾー・パズルなのだそうだ。
2000ピース以上の大きなもので、家族で1カ月かかったという。
これはおそらく、私が持っているものと同じで、3000ピースのものだ。
客間、といっても、ほとんど楽器置き場のようになってしまっているが、
その本来応接間であったはずの部屋に飾ってある。

20年ほど前、ジグゾー・パズルを熱心にやっていた時期がある。
ほとんどは、西洋の名画である。
今書いたラファエロの「アテネの学堂」の他に、

ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」(2000)
       「春」(2000)
ダ・ヴィンチ 「最後の晩餐」(2000)
       「モナリザ」(500)
ブリューゲル 「バベルの塔」(1000)
アングル   「ラ・グランド・オダリスク」(1000)
       「泉」(1000)
ルノワール  「テラスにて」(1000)
       「イレーヌ・カン・ダンヴェール嬢」(1000)
ドガ     「舞台の踊り子」(500)
歌劇「トスか」の舞台となった「サンタンジェロ城」(2000)

生活破壊の恐怖に怯えながらも、のめり込んで充実した毎日を送っていた。
しかし、こういう絵画を扱ったジグゾー・パズルは少なかった。
もうこれ以上、苦労して作りたいような絵柄は見つからなかった。
その上、前任校に赴任した18年前からは、部活が本格的に忙しくなった。
それ以来やっていない。
時々、妻が取り組んでいるのを手伝って叱られたぐらいのものである。

ジグゾー・パズルは魔性の魅力を持っている。
ピース数が多ければ多いほど、つまり図柄が細分されているほど、
日々の、そして、1ピースごとの喜びや達成感が大きい。
毎日、少しずつ形を成して行く喜び、
ぜんぜん見当のつかなかった1ピースがちょっとした勘で嵌ったときの喜び、
きわめて単純な仕組みながら、実に魅力に満ちたゲームなのである。
あのころもし塵語を書いていたなら、毎日がパズルの報告になっただろう。
そして、今のように写真も載せられたなら、
ここまで進みました、の写真もちょいちょい載せたに違いない。

ジグゾー・パズルそれ自体がとにかく楽しかったが、
それだけでなく、上記の絵画を隅々まで鑑賞する機会になった。
何千回も元の絵画を見つめつつ、ピースを選定するのである。
画集などを長時間眺めるよりも、はるかに微細に細部に目を凝らすのである。
それも、繰り返し繰り返し。。。
それもまた、楽しい勉強になった。

また、そのころはよく、部分と全体ということについて考えた。
ピースの模様をどう見ても、その場所に入るとは思われない、
ところが試しに入れてみると、しっかり嵌って、図柄も周りに溶け込むのだ。
ピースの図柄自体は何の変化もしない。
ところが、ピースが単独で存在するときと、周りのピースと一緒のときとは、
ピースの色合いも模様も、変わってしまうように思われるのだ。
それは、すごい驚きなのである。
それは、そのピースの意味が変わるということである。
ちょうど、音楽の「ドミ」という音の進行が、
「ドミソ」の中にあるか、「ラドミ」の中にあるかで、
正反対の意味を帯びるのと同じことだし、
さまざまなメロディーの中に頻繁に現れながら、
その都度違った様相を帯びているのと同じことである。
もっと大胆なことを言えば、それだけを取ってみれば、
万人が認めるに違いないほどの真理であったとしても、
その状況全体の中にその真理を置いてみると、
必ずしも真でないということも大いにあり得るというわけだ。

とにかく、ジグゾー・パズルというのは、
さまざまなものを見させ、考えさせてくれる、良質な玩具なのである。
・・・うーん、、また何か作りたくなってきたぞ。


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