西日が差したら枇杷の実を食べよう
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| 2001年07月27日(金) |
時をこえて伝わっていく、永遠の「何か」。『ビートニク』 |
『ビートニク』をみた。
1950年代から60年代にかけて、アメリカでおこった カルチャームーヴメント「ビートニクス」の三大スター、 ケルアック、ギンズバーグ、そしてバロウズを、 フューチャーしたドキュメンタリー。
当時の貴重な映像とともに、 ジョニー・デップ、ジョン・タトゥーロ、デニス・ホッパーらの ポエトリーリーディングの映像が、 まさにビートニクジェネレーションがいうところの、 「路上のビート」そのままに、 スタイリッシュにコラージュされている。
が、残念なことに。 コレをみて、一番に思ったことは、自分が、 「字幕」鑑賞者(つまり英語ができない)であることのかなしさ。
ポエトリーリーディングの場面一つとっても、 ついつい、字幕を「読んで」しまうので、 どうしても、五感でその世界を「感じる」というより、 右脳だったか、左脳だったか忘れましたが、 とにかくそのどちらか片方の、 論理的思考をつかさどる方の脳を、どうしても使ってしまうのだ。
そんなハンデキャップが、あることはあったが、 この映画をみる前と後では、やはり アメリカ文化に対する自分のスタンスはちょっと変化したように思う。
つまり、保守的なアメリカ文化の王道とはまた違う、 もう一つの、アメリカ文化の流れに対するスタンスが。
ここで少し、私自身のことをいえば、 80年代〜90年代の日本に、この、 ビートニクのスピリッツを変換しようとしたアーティスト、 佐野元春が好きだったこともあって、 いわゆるビートジェネレーションの詩は、それなりに読んでいた。
家には、ギンズバーグの詩集もいまだに捨てずにとってある。
でも、今思うと、その頃の自分は、ビートニクス達のつむぎだす、 「コトバ」としての魅力を単純に追っていただけで、 その時代に生きている彼らの、血の通った、 まさに「ジェネレーション」としての、生活や皮膚感覚に結びついた、 微妙な感覚までは、理解できていなかったような気がする。
もちろん、今だって、その時代に生きてもいない、 ましてやアメリカ人でもない私が、 たった一本の映画をみただけで、 「理解」なんてできているわけないんだけど。
が、それでも。
この映像をみたことで、 ビートジェネレーションから、ヒッピーカルチャー、 そして現代にいたるまで、脈々と流れ続けているもの、 それが「血」なのか、「Rock'n Rool」なのか、「魂」なのかは わからないけれど、 とにかく、その流れ続けている「何か」の断片だけでも、 多少なりとも リアルに感じ取ることができたように思う。
もっと、おおげさにいうとその何万分の1かでも、 「共有できた」というか。
そして、これは確信なのだけれど、 その「何か」は、時をこえて、 いまでも、私の好きなアーティストたちの中に、 脈々と流れ続けているんだよね、きっと。
まさに「共有」されているかのように。
たとえば、私の大好きなスティーヴ・ブシェミは、いま、 新しい自作映画として、 ウィリアム・バロウズの脚色にトライしている…という風に。
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