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2007年05月31日(木) 『現代のアイヌ 民族移動の大ロマン 』菅原幸助著


『現代のアイヌ 民族移動の大ロマン』
菅原幸助著(現文社)
一九六八(昭和四三)年二月一九日初版発行

P57〜

アイヌ民族大陸移住計画は順調に進み 穂坂徹先生はコタンの青年たちを連れて昭和一七年に渡満した。
・・・この大計画は終戦でご破算になり、再びコタンに戻ってきた。
しかし戦後の民主教育は穂坂先生に一筋の希望を与えた。差別なき教育が実を結びつつあるからだ。

ある年、奈良市で「同和教育研究全国大会」という大会がひらかれたことがある。穂坂先生は休暇を取り、自費で奈良市まで出かけていった。
本州でおこっている未解放部落の教育問題、同和問題解決のあり方を知りたかったからだ。
穂坂先生は大会に出席して次のように発言した。

日本の同和教育の中で 北海道のアイヌ教育、コタンの青少年問題もいっしょに討論していただきたい。
アイヌはアメリカのインディアンよりも悪く、黒人問題に近い、深刻な悩みをかかえています。
日本人は白人に対してある種の劣等感を持っていた。
その日本人が満州や支那大陸では 中国人に対してある種の優越感を持って彼らを軽蔑していたようです。
敗戦で、すべての外国人に頭が上がらなくなった日本人が アイヌに対してだけはつまらぬ偏見を発揮しているのです。
北海道に住む”日本人”はアイヌに対して特にそうした感情をもっている。
差別、偏見の問題は、アイヌとか黒人に限定されるものでない。
社会のあらゆる差別、偏見による被害をなくすために わたしたちは根強い運動を進めて行こう・・・。

奈良市での大会があってから、本州の同和教育を進めている教育者達と穂坂先生はがっしりと手をつないで、けわしい道を踏み進んでいるのだ。


P211〜

コタンの指導者、貝沢正さん(五三歳)はこのことについて

「本州の部落解放運動を調査してわかったことですが、むかし本州で部落の人たちをエッタと呼んで非常な差別扱いをしていた。
戦争中のことだが、政府は部落民に竹細工とか牛馬の皮の加工など特殊な技術を指導した。
もちろん、部落民救済という名目で行われたことだ。
そして、竹細工の家具、台所用品を売りに歩くと、あのひとはエッタだ、とうしろゆびをさしたものだという。
アイヌの保護政策として、生活館でコタンの青年たちにクマ彫りを指導するのは”エッタの竹細工指導”と同じことではないか。
私たちは本州の部落民が経験した苦しい道を歩かされるのはごめんだ」

と語り、新しい時代の職業指導を望んでいた。

P219

アイヌの組織でもうひとつ、見逃すことのできないことは、
「本州の同和対策とアイヌの同化運動が手をつないで前進すべきである」
という動きがあることだ。
推進者は日高平取町の貝沢正さんを中心にした中年層の人たちである。
貝沢さんたちは秋の仕事が終わると、毎年のように大阪、京都方面にでかけていく。
そこで部落解放運動の進め方を視察し、水平社の運動家たちと会ってアイヌの実情を訴えてきた。
奈良県北葛城郡上牧村に住む元小学校長松浦勇太郎さん(六一歳)らと文通して、どうしたら差別や偏見のない社会をつくることができるか、について熱心に話し合ってきた。

ある年、部落解放全国大会が大阪市で開かれ、貝沢さんたちも招かれて出席した。
「北海道には部落民というのはないが、部落民よりもっと苦しんでいるアイヌがいる。みなさんの運動にアイヌの問題もいっしょに加えてください」
貝沢さんたちはこう訴えて、
人間平等を力説した。



 *1968年の「北海道開拓百年記念」の祝典に際し、その「開拓」史観の賛美およびアイヌの存在の隠蔽を批判する動きが高まった。この頃から1970年代にかけて見られるところの、アイヌの現代史を構成する上での重要な転換の特質のひとつは、民族的尊厳を求めて「発話する」ポジションが多極的な様相を呈するようになることである。

 それが顕在化する大きな要因は、1970年6月の北海道市長会総会での北海道旧土人保護法(以下、旧土法)廃止提案の採択を契機とした同法の存廃をめぐる議論であった。これに対しウタリ協会は、新たな施策を求めていく根拠として存置するという趣旨から廃止反対を総会で決議した。これには、1969年7月の「同和対策事業特別措置法」の公布を受け、対アイヌ施策が同和対策事業と比較して立ち遅れているというウタリ協会側の認識が背景にあった。その後1974年から「ウタリ福祉対策」が実施されたが、同和対策との格差拡大に対する不満は一層強まった。こうした動向はやがて、対アイヌ施策を規定する法律制定に向けた運動の発生源のひとつとなっていく(北海道ウタリ協会 1994:589)。

 しかしその一方で旭川人権擁護委員連合会は、上述の市長会提案を受けて、国民一般からの法的区別の全廃という観点から旧土法撤廃を求める方針を決議した。さらに1972年11月に発足した「旭川アイヌ協議会」が同様の方針を明確にし、ウタリ協会とは異なる方向性が採られることが浮き彫りになった。
 同協議会会長(当時)の門別薫は、「『旧土人保護法』の廃止は経済的援助や物質的な施与などアイヌの貧富問題とは全く別問題であって、あくまでも憲法でいう基本的人権の原点に立たなければならないのである」(門別 1973:2)とこの時期に論じていた。
 門別はこれに続けて、「アイヌ人を主体としたアイヌ史を築き、民族の尊厳を回復するための重要な素地をつくらなければならない」と述べており、彼らの想像する「民族的尊厳の回復」は特別な施策を求めることにはつながらないという認識を示していた(6)。

 こうしたポジションの多極化をさらに進めたのが、アイヌをめぐる諸問題の外縁に位置するさまざまな運動体との連帯である。社会主義運動や部落解放運動との連動は、戦前期からもある程度見られるものである(大阪人権歴史資料館編 1993、小川・山田編 1998)が、北海道ウタリ協会再建後の60年代になると、同和対策事業の法制化をめぐる動向の影響を受けつつ、差別待遇撤廃の観点から部落解放運動への歩み寄りを図る層の動きが起こってくる(菅原1966:219)。

また、1973年5月の北海道中央メーデーにアイヌ有志が「アイヌ民族旗」を掲げて参加したことや、1970年頃からの伊達火力発電所建設の動きに対してウタリ協会伊達支部が(協会本部とは独自に)反対運動を展開するようになったこと(アヌタリアイヌ刊行会 1973a)など、労働運動や環境保護運動などとの新たな連帯の形が生まれてきた。

 さらにこの時期、東京での「ペウレ・ウタリの会」(1965年)や「東京ウタリ会」(1972年:これを前身として1980年に「関東ウタリ会」が設立された)の発足、北海道ウタリ協会石狩支部(のち札幌支部)の設立(1971年)など、都市部におけるアイヌの組織化が進行した。
 また、1973年6月にタブロイド版新聞『アヌタリアイヌ われら人間』が創刊されたことや、同年11月に「ヤイユーカラ・アイヌ民族学会」が設立されたことなど、旧来の運動体の主導によらない多様なムーブメントの簇生が見られるようになった。
 とくにその担い手として、比較的若い年齢層や女性層の参加が顕著になるのもこの時期の新しい傾向である。

 こうした活動の方向性の多様化については、非都市部出身の、しかも場合によってはマジョリティ社会において一定程度の経済力を得ることに「成功」した男性中高年者という人々が中心となって指導的な層を構成していた旧来の組織の主導による運動の主流が、上述の新たな運動群から発話される問題系を十全に掬い切れなかったという点を見なければならない(SIDDLE 1996:172-173)。
事実、1973年7月のウタリ協会総会では、協会名称を「社団法人北海道アイヌ協会」に戻すか否かという問題や、協会の事業を道外在住アイヌにも適用すべきか否かという問題などをめぐって意見の相違が噴出しており(アヌタリアイヌ刊行会 1973c)、とりわけ、広範な民族的連帯を構築しながらアイヌのアイデンティティを強く主張していこうとする層にとって、政治的な問題を回避しようとする協会の福祉団体的な体質は批判の対象となりつつあった。

 もっとも、こうした運動内部のポリティクスをもって、民族的差異を呈示するラディカルと、同化主義的な志向を残す保守的な層との間の相克、などと単純に見なすことはできない(7)。前項で論じたように、当初からアイヌの自己呈示の表象は、「日本国民」という上位のカテゴリーと「アイヌ」という個別的カテゴリーとの間で生まれるねじれを内包したものであった。この時期において現象化した複数の「発話するポジション」の簇生は、いわばそうしたねじれから織りなされたグラデーションの一種であり、個々の運動体は、差異の分断面の在処をめぐってそれぞれが想像する「尊厳」のあり方を志向していたのだと考えられる。




*菅原幸助氏は、14歳で満蒙開拓少年義勇軍に応募して渡満し、軍事訓練と農業の指導を受けていたが、18歳で志願兵となりました。しかし、現地で習得した中国語を活かして憲兵になるようにすすめられ、憲兵隊に入隊した。憲兵としての訓練を受けるのもつかの間、ソ連軍が参戦し、訓練は繰り上げ卒業し、ただちに、新京から避難する列車の護送の任務につきました。このため、軍人でありながら、早期に帰国できたという経歴の人です。

 戦後は、朝日新聞の記者をして、53歳のときから中国残留孤児の問題のボランティアとして活躍し、今回の全国訴訟の実質的指導をしている人です。

 1987(昭和62)年から、中国残留孤児問題全国協議会(孤児全協)の会長もされています。

 満蒙開拓義勇軍、関東軍憲兵という特異な経歴と、新聞記者としての豊富な体験、残留孤児の多くの人との深い交際や、身を挺しての活動に基づく証言は、納得できるものであり、その行動と実践に感動しました。

 どうして現在の孤児の不幸が生じたのか、深く考えさせるものでした。




*鎌倉ユネスコ第二 代理事長・菅原幸助さんに、横浜弁護士会第8回“人権賞”が贈呈された。
同賞は、年一回、人権を守る活動で優れた功績を残した人や団体を表彰するもの。
菅原さんへの授賞理由は中国残 留日本人孤児の日本国籍取得を実現させた実績と、帰国後、国の支援がない ため自立が困難になり厳しい生活を余儀なくされている孤児たちが、政府に 損害賠償を求める集団訴訟を支援しつづけた、その地道な努力と行動力。

過去15年間に菅原さんのお世話で帰国した中国残留孤児は300世帯に及ぶ。
みんな就職させ自立させたつもりだった。が、彼らが定年を迎える段階になって、実際にはその7割が規制の多い僅かな生活保護で暮らさざるを得ない苛酷な現実にあることを知る。10万人の賛同署名を集めての二度にわたる国会請願は不採決に終った。
集団訴訟の弁護士探しを依頼され途方に暮れていた菅原さんの相談相手が鎌倉ユネスコの理事長職をバトンタッチした及川信夫弁護士だった。
及川さんの紹介で小野寺利孝弁護士に出会いそこから輪は広がった。
今、1,262人の原告に対し、183人の弁護団へと発展。
菅原さんを含め、みんな手弁当のボランティアだ。 一人からの出発を決意し踏み出した背景を菅原さんは「私の青春時代の罪ほろぼし」と言う。
親の反対押し切り満蒙開拓を夢見て渡満。農事訓練生としてホームステイした中国人家庭で中国語をマスター。
そこを見込まれ終戦の年3月、憲兵教習隊員にひっぱられた。ほどなく敗戦。関東軍将校や高級官僚の日本帰還任務に追われるなかで見聞した開拓団おんな子供の悲惨。
帰国後は朝日新聞事件記者で鳴らした時期もあったけど、あれが侵略戦争だったと本当に気づいたのは、横浜中華街取材で会った中国人学生との対話から。 53歳、遅い気付きだった、と。
「受賞はもちろんありがたいことだけど、孤児たちが安定した人間らしい暮しができる日が来ない限り、喜ぶわけにはいかない」と語り終えた菅原さん、三年前に病んだ椎間板ヘルニア後遺症で痛む足をかばうかのように、ステッキをつき初冬の街を去って行かれた。その後ろ姿には、2年以内の判決をめざし、勝訴の日まで粘り強く支えていくための全国100万人署名と支援募金運動の重責が懸っていた。



*2004年3月10日(水) 中国残留孤児訴訟、初の証人尋問 菅原幸助氏、国の責任を厳しく告発!

 
  東京地裁第103号法廷にて     スケッチ 大森たけし
            中央、裁判長の前に居るのが菅原氏
 10日、中国残留孤児訴訟の第7回の口頭弁論で初の証人尋問が行われ、長い間、残留孤児の支援に当たってきた菅原幸助氏が4時間にわたって、国の責任をリアルに告発する陳述を行いました。
 私もこの日は、朝9時過ぎから傍聴券を求める列に入り、うまい具合に抽選(最近は籤引きではなくコンピューターで行うとのこと)で当たり、4時間たっぷり傍聴しました。
 菅原氏は、自ら、満蒙開拓義勇軍を志願したこと、軍隊入隊後、憲兵としてソ連参戦・日本敗戦時の高級将校・その家族の避難列車護衛の任務についたこと、また、戦後は、朝日新聞記者として、残留孤児問題を徹底調査したこと、さらにボランティアとして、戸籍上、死亡扱いされた孤児の就籍のために活動したことなどの経験から、国策として、旧満州に、菅原氏をはじめ、大量の国民が送り込まれたこと、ソ連参戦・日本敗戦時にたくさんの民間人、子供たちが置き去りにされたこと、戦後は、残留孤児の引き揚げに日本政府がまったく何もしていなかったこと、戦後、40年も経ってやっと帰国した孤児たちへの国の施策がきわめて貧弱であったことなどをリアルに証言し、私もたいへん感動しました。
 なかでも、避難列車の護衛の時、水の補給で停止していた列車が、匪賊の襲撃で急遽出発した時に、数名の女性、子供たちが乗り遅れ、必死に走って追いすがるのを見捨ててきた時のことを証言する際には、氏は絶句し、最後は「(証言は)もう勘弁してください」と述べたのでした。菅原氏の今日の行動のおそらく原体験とも言えるのではないでしょうか。
 菅原氏の今日の証言は、国のあれこれの言い訳をことごとく打ち破るものでした。
 氏の証言は、午前、午後にわたって行われましたが、その間、昼休みには、厚生労働省前で原告や支援の皆さんによる要請集会も行われました。
 先日の「支援する集い:」で発言していただいた原告団の清水さんが、日本語と中国語の両方でシュプレヒコールの音頭をとりました。



*鮎喰人権サイト「大人の学習会」No.72から

部落史研究の未来

・・・「過去」 では一般に 「謂われのない差別」 という言い方がされたが、それは決定的な間違いであり、部落差別や多様な被差別民に対する差別の 「謂われ」 は確実に存在する。しかし、それは部落のなかにあるのではなく、部落外住民の生活意識のなかに潜んでいる。

・・・教育条件の整備に限っていえば、「課題・条件を共有するものすべて」 を対象とした制度・システムが構築されるべきであり、どのような意味であっても特定の閉ざされた集団 (個人の個別条件、個性によって構成されるのではない集団、たとえば部落出身の児童生徒など) だけを対象とした制度・システムは意味を持たない、と考えなければならない。
・・・新しい高等学校奨学金制度 (奈良県では奈良県高等学校等奨学金制度) の持つ意味は限りなく大きく人権教育のシンボル的意義を持つ・・・

・・・「課題・条件を共有するものすべて」 を対象とした人権教育こそが同和教育が本来めざした 「部落差別をなくす」 ことを実現させうる教育活動ということになり、部落史研究の未来は被差別という 「課題・条件を共有するものすべて」 がいかに協同し、協調し、調和したかを歴史のなかから取り出すことを一つの課題にしなければならない・・・


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