P57〜
アイヌ民族大陸移住計画は順調に進み 穂坂徹先生はコタンの青年たちを連れて昭和一七年に渡満した。
・・・この大計画は終戦でご破算になり、再びコタンに戻ってきた。
しかし戦後の民主教育は穂坂先生に一筋の希望を与えた。差別なき教育が実を結びつつあるからだ。
ある年、奈良市で「同和教育研究全国大会」という大会がひらかれたことがある。穂坂先生は休暇を取り、自費で奈良市まで出かけていった。
本州でおこっている未解放部落の教育問題、同和問題解決のあり方を知りたかったからだ。
穂坂先生は大会に出席して次のように発言した。
日本の同和教育の中で 北海道のアイヌ教育、コタンの青少年問題もいっしょに討論していただきたい。
アイヌはアメリカのインディアンよりも悪く、黒人問題に近い、深刻な悩みをかかえています。
日本人は白人に対してある種の劣等感を持っていた。
その日本人が満州や支那大陸では 中国人に対してある種の優越感を持って彼らを軽蔑していたようです。
敗戦で、すべての外国人に頭が上がらなくなった日本人が アイヌに対してだけはつまらぬ偏見を発揮しているのです。
北海道に住む”日本人”はアイヌに対して特にそうした感情をもっている。
差別、偏見の問題は、アイヌとか黒人に限定されるものでない。
社会のあらゆる差別、偏見による被害をなくすために わたしたちは根強い運動を進めて行こう・・・。
奈良市での大会があってから、本州の同和教育を進めている教育者達と穂坂先生はがっしりと手をつないで、けわしい道を踏み進んでいるのだ。
P211〜
コタンの指導者、貝沢正さん(五三歳)はこのことについて
「本州の部落解放運動を調査してわかったことですが、むかし本州で部落の人たちをエッタと呼んで非常な差別扱いをしていた。
戦争中のことだが、政府は部落民に竹細工とか牛馬の皮の加工など特殊な技術を指導した。
もちろん、部落民救済という名目で行われたことだ。
そして、竹細工の家具、台所用品を売りに歩くと、あのひとはエッタだ、とうしろゆびをさしたものだという。
アイヌの保護政策として、生活館でコタンの青年たちにクマ彫りを指導するのは”エッタの竹細工指導”と同じことではないか。
私たちは本州の部落民が経験した苦しい道を歩かされるのはごめんだ」
と語り、新しい時代の職業指導を望んでいた。
P219
アイヌの組織でもうひとつ、見逃すことのできないことは、
「本州の同和対策とアイヌの同化運動が手をつないで前進すべきである」
という動きがあることだ。
推進者は日高平取町の貝沢正さんを中心にした中年層の人たちである。
貝沢さんたちは秋の仕事が終わると、毎年のように大阪、京都方面にでかけていく。
そこで部落解放運動の進め方を視察し、水平社の運動家たちと会ってアイヌの実情を訴えてきた。
奈良県北葛城郡上牧村に住む元小学校長松浦勇太郎さん(六一歳)らと文通して、どうしたら差別や偏見のない社会をつくることができるか、について熱心に話し合ってきた。
ある年、部落解放全国大会が大阪市で開かれ、貝沢さんたちも招かれて出席した。
「北海道には部落民というのはないが、部落民よりもっと苦しんでいるアイヌがいる。みなさんの運動にアイヌの問題もいっしょに加えてください」
貝沢さんたちはこう訴えて、人間平等を力説した。