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2006年07月29日(土) 資料) (靖国に合祀されている)戦没者

「戦没軍人事蹟」(『菟田野町史』より)

『菟田野町史』(菟田野町史編集委員会編,菟田野町役場,1968)


資料)
(靖国神社に合祀されている)戦没者年令別

才17181920212223242526272829303132
人7(2)2(1)2(1)2(3)12(1)22(2)25(5)32(6)21(6)34(3)11(4)19(3)16(3)7(1)10(0)10(3)

才333435363738394041424344464751計
人9(6)6(0)13(2)8(0)5(0)6(3)11(0)8(1)2131211309(うち□□村、55)



※合祀について

都道府県の担当者は戦没者の氏名や階級、本籍、生年月日、死亡時の所属部隊や死亡年月日などを「祭神名票」というカードに記入。それを厚生省経由で靖国神社に送り、その戦没者を例大祭の時期に「祭神」として合祀する――。
こうした「合祀事務」が、一九八七年三月まで続いていました。



同じく、『菟田野町史』「戦没軍人事蹟」より

(氏名・生年月日・住所・事蹟順)

■■豊治朗(義理の曽祖父の長兄)

・大正一一年(一九二二)三月一一日、□□二六〇、昭和一八年二月一〇日大阪第二七部隊に入隊、満州吉林省安山大隊本部付に所属、昭和二〇年(一九四五)八月一六日朝鮮清津北方輪城橋に於て戦死。(陸軍伍長)



※殉職について

旧日本軍において功績顕著な戦死者については二階級特進させるという例によっており、旧陸軍に於いては上から、大将-中将-少将-大佐-中佐-少佐-大尉-中尉-少尉-准尉-曹長-軍曹-伍長-兵長-上等兵-一等兵-二等兵でした。





資料)平成10年12月高知県議会議事録 森田益子さんの答弁から
私たちの朝倉には、御存じの方も多くおられると思いますが、昭和二十年の敗戦まで四四連隊という軍隊がありました。
朝は、私たち朝倉の者は「とっとと起きよ」という起床ラッパで起こされました。
そして、昼間は「出てくる敵は皆々殺せ」という進軍ラッパを聞かされ、夜は「兵隊さんはむごいわね、また寝て泣くのかよ」と哀愁を帯びた消灯ラッパで床についたものです。
その中で周辺に居住していた私たち三カ所の被差別部落の者は、赤貧洗うがごとき差別と貧困の中でも、兵士の苦労をさまざまの形で支え慰めてきたのです。
朝倉駅から戦地に行く兵士を幾たび涙で見送ったことか。
さらに、国立病院は旧陸軍病院だったので、傷ついた傷病兵の出迎え、戦死者の遺骨の出迎え。
 
朝倉の住民は他の地区と少し違う感情の中で、人権の守られない社会には平和は守られない、平和を守らない社会では人権は守られないと体をもって覚えました。


当時の軍隊での部落差別はひどいものでした。
だから、同和教育に対しては強い、強い願いを持っております。
 
一つの例ですが、私より三つ年上の者が、軍隊に行って文字を知らないために「入浴」という漢字が読めないし、「入浴」ということに理解ができなかったようです。

私のところはその当時理髪店をやっておりましたが、その青年は一週間目の外出に出てきて、「おんちゃん、入浴を知っちゅうか」、父はニューヨークを聞かれたと思うので、「そりゃあ知るかや、ニューヨークはだればれ知らぬぞ」と。

「そうじゃろう。軍隊へ行ったらのう、おんちゃん、風呂に入ることを入浴という。だからおんちゃんのところへ兵隊に行く前に散髪に来た人には、軍隊へ行ったら風呂に入ることを入浴ということを教えちょいちゃって。あしはそれを聞きただしたばっかしに、このとおり仕打ちを受けた」と言って、お腰をあけて見せられました。

「えたが何てことを言やあ、人を愚弄すな。入浴を知らぬか」と言って帯革でひどく仕打ちをされた、この光景が私はいまだに忘れられません。
高知県議会議事録における森田益子さんの答弁(ご体験)には、部落問題、同和教育、部落解放運動の原点・歴史が凝縮されていると感じられましたので、ここに貼りつけさせていただきました。ご紹介くださった友人に感謝。



とうとう、ダブルくんのひいおじいちゃんまで、登場させてしまいました(苦笑)。
部落と部落外をつなぐために少しでも貢献できましたら、幸いに存じます。


※軍隊の機構の補足として

岡本愛彦氏(主なテレビ作品『私は貝になりたい』など)のお話によると、旧満州と関東州の旧制中学の正課が中国語で、陸軍士官学校の正課が中国語と露語だったそうです。

陸軍士官学校出の中尉や少尉、将校になっていくコースと、満二〇歳のときに徴兵礼状がきて二等兵(一つ星)から一等兵(二つ星)へと上がっていくコースの二つがあったそうです。

下士官(伍長より上)以上になると月給が出るのですが、これは二等兵から上がっていった者にとっては大変な出世で、平時は曹長どまり、ごく稀に少尉になれても年齢は既に四〇歳位になっていました。一方、陸軍学校出の人たちが少尉になるのは二二、三歳くらいでした。 

実際の戦場で一番頼りになるのは下士官だったのでプライドは保たれたけれども、下士官(月給トリ)に上がれなかった古参兵の一等兵や上等兵は卑劣な隊内リンチを行い、軍隊も、統制上の理由でそれを許していました。



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