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2004年01月02日(金) 姫だるまの平和問題

姫だるまの平和問題


アユトン・クレナック

 民族間の対立や暴力行為を考えると、その解決の難しさと同時に恥ずかしさも覚えます。
率直に見つめると、人間は誰もが破壊的要素を備えていると思います。
それが大きくなってしまうと、残虐行為となるのです・・・インディオに行われたとても残酷な行為を思い出すと辛くなってなかなか話すことができません・・・
 悪いものが支配的になることは、自然にもあることです。
自然界をゴミに変える行為と庭に変える行為と、どちらが簡単だと思いますか。美しい庭を作る為には、季節を選び、時間をかける忍耐が必要です。
 ところが、自然界の調和を破壊し、自然をゴミ捨て場にするのは一日でできます。
しかし、自然を取り戻そうとすれば次世代までかかってしまうでしょう。
 エゴイズムもこれと同じではないでしょうか・・・

「まれびと」より

・・・こちら側の生活圏で、テロルは狂気であり、いかなる理由にせよ、正当化されてはならない、というのは、べつにまちがってはいないけれど、あまりに容易すぎて、ほとんど意味をなさない。そのようにいおうがいうまいが、米国による覇権的な一極支配がつづくかぎり、また、南北間の格差が開けば開くほど、テロルが増えていくのは火を見るよりも明らかなのだ。

 世界は、じつは、そのことに深く傷ついたといっていい。抜群の財力とフィクション構成力をもつ者たちの手になる歴史的スペクタクル映像も、学者らの示す世界観も、革命運動の従来型の方法も、あの実際に立ち上げられたスペクタクルに、すべて突き抜けられてしまい、いまは寂(せき)として声なし、というありさまなのである。あらゆる誤解を覚悟していうなら、私はそのことに、内心、快哉を叫んだのである。(辺見庸「単独発言」)


 あのニューヨークでの惨劇に対する、辺見庸のこのような直観は鋭く、私には見事に的を射ているように思われる。あの巨大な摩天楼への激突は世界に対する激しいルサンチマンの表現であり、そこには己の身体がばらばらに砕け散ることさえ厭わなかった表現者たちがいたということだ。

 偶然、テレビであのリアル・タイムな画像を目の当たりにしたとき、私は正直に告白するが、ひそかに胸の内で「やったぞ」といった小さな快哉をたしかに叫んでいた。さらに不謹慎を承知で言うなら、あの神戸の地震で横倒しになった高速道路の映像をテレビで見たときも、それに近い感覚で胸が騒いだ。大阪の西成・愛隣地区のまるでパレスチナの光景のような暴動が写されたときもそうだった。

 私はおそらく破壊が好きだ。いやもっと正確に言うならば、でたらめのまま平気で紳士ぶった顔をしている世界よりも、露わになった裂け目からその耐え難い悪臭を放つ膿が噴出する世界のほうが、いっそ良い。

 その破壊の衝動において、私は心情的には、あのテロリスト犯たちに限りなく近いメンタリティを所有している、とあるいは言えるかも知れない。その手段の違いこそあれ、私の撃ちたいものはかれらと似ている。言ってみれば、人間の歴史における「勝者」の価値観、それも暴力的な「勝者」の価値観。それらはいまや私たちの周囲に息苦しいばかりに満ちあふれている。そして私たちはその上にあぐらをかいてきた。しかし一方で、これはもっと認めたくないことだが、あのブッシュに代表される事物を単純に分類し定義づけそれらを暴力的に支配したいという冥(くら)い欲望も、私のなかにたしかに存在している。

つまり、私はブッシュでもあり、テロリスト犯でもある。私のなかにかれらは存在する。他を批判するのは容易い。だが、自分自身の内なる〈他者〉を見据えること。かつて拙い差別に対する論考の最後にも記したが、そのように、アフガニスタンの問題とはけっして政治的なものではなく、それぞれ個人の極めて内面的な自問として語られなくてはならないものだと私は考えている。浅間山荘のあの陰惨な殺戮も、そのような視点の欠如から起こったのだと思う。私のなかの古井戸を掘り下げていくと、暗い闇のなかに、無数のうめき声をあげている顔たちが浮かびあがってくる。



§「被爆」西成の加古さん
§「被爆」長崎浦上部落
§9.11とノーム・チョムスキー
§アフガンの子どもたち
§アウシュビッツのことがあるからでしょう
§戦争より戦後が大変
§石川逸子さんの「平和」の詩へのリンク


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