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2002年11月05日(火) 「部落問題のパラダイム転換」2002


☆「部落問題のパラダイム転換」(野口道彦著・明石書店)☆

 全国水平社が「自ら解放せんとする者の集団運動」を呼びかける人々を「部落民」というカテゴリーでとらえた点は重要である。
 部落と部落外の境界線が流動化していることや、身分・職業・地域の三位一体的な部落がなくなっていることは一定、賛同が得られている。
 一方、「部落民」概念から、血縁的要素、地域的要素を切り離す必要性については疑問視されている。
 「部落民」概念の再定義の必要性の理由は�〆絞未量戯�拠性と恣意性を暴露するため�∈絞未箸瞭�いの主体は誰なのかを再定義するためにある。
 身元調べはきわめてずさんで、かつ水面下で行われるため、誰もが差別・排除される対象になる可能性がある。血縁的・地縁的関係がなくても、間違えられて差別された人が差別と闘う主体となるのは当然である。
 部落民とは、差別されることによって部落民であることを自覚する受動的存在であると共に、差別を跳ね返すために闘う主体として能動的存在である人のことである。
 解放運動や同和教育をする側が、部落民を血縁や地域で安易に定義することによって、「あなたはどのような人を部落民と考えているのですか。何をもってそう考えるのですか。まぜ、その人を排除するのですか」と本来不断に問い続け、無根拠性を明らかにしていくべきことがらに、思考停止をもたらしてきた。
 部落民という言葉は、解放運動や同和教育で使う言葉である。それ以外の文脈で使われると差別的なニュアンスを帯びてしまう。いつ誰がどんな時にでも使っている言葉ではないのは、実態がないからである。つまり、文脈(関係概念)としての部落民が存在するのであって、実態(実体概念)としての部落民が存在するのではない。
 また、同和対策事業が一般対策化され、行政上は部落民(「同和関係者」)を属地・属人的に認定する作業が必要でなくなった。
 これからの解放運動は、地域を基盤とした街づくり運動と、結婚差別・就職差別などの課題別の専門的な解放運動との二方向に分化していくだろうと考えられる。運動の担い手(主体)もおのずと多様になってくるであろう。
 

☆「部落差別のソシオロジー」(八木晃介著・批評社)☆

 「同和教育は物知りを作る教育ではない。知識注入教育は無効である」との言説が広く行き渡っており、それ自体は正当な指摘である一方で、部落問題の概念的知識それ自体もお寒い状態に児童・生徒が放置されている実情があります。いかなる概念の持ち合わせもなく、どのような考察が可能かを考えたとき、ひめだるまは、これは思い上がりに違いないけれども、そういった人たちに同和教育を一から教え直さなければならない焦燥にかられます。

 部落とは何か。部落民とは誰か。かつては自明の理であったこれらの命題が、自明ではなくなってきたので、問われるようになった。
 部落差別と他の差別とを区別するとき、可視的な差異はない、けれども差別は現実には存在しているという。
 ただ、差異が差別の基準になるならば、黒人が白人を差別したり、しょうがい者が健常者を差別してもいいわけです。しかし、「白人差別」とか「健常者差別」とかいうものはない。
 一つの閉じられた社会の中では必ず、人間外の人間に分類した誰かを排除するメカニズムが生まれる。江戸期の日本の特殊事情において、皮膚の色の差異もない特定の日本人集団を追い出すことによって、部落というものは成立し、そうしないと自分のアイデンティティーを保てない。
 差別は格差かというと、行政闘争によって部落外の生活水準を越えた部落もあれば、そうでない部落もある。にもかかわらず差別はなくなっていない。
 人々は解放理論にしらけている。解放奨学金もらって、大学を卒業して、あとは見向きもしない。もったいない。水平社の精神からすれば。
 「自分は自分をどう見ているのか」「他者は自分をどう見ているのか」「他者が自分をどう見ていると思うのか」、この3点が一致しないとアイデンティティーは危機に見舞われる。被差別によって反射的に形成されるアイデンティティーは曖昧になってきている。
 水平社の反差別の言説を大真面目に考える伝統が、部落解放運動には欲しいところ。
 ワタシも変わったけれど、部落とそこに住む人々も変わったと思う。部落外の人たちが「自らの少数者性」をはっきりと感じられる人になりうるかは絶望的です。現実は、少数派が多数派の原理を身につけて、それで多数派と折り合いをつけるところがある。部落民が解放の主体。それ以外の人たちの方が水平社精神に賛同している現実も出てくる。そこから、ワタシは新しい意味での部落民。
 人間には自立の欲求と所属の欲求がある。統合されることを容認するような価値を否定できる文化性を持つことが大事だと思われる。
 パートナーの部落は共同体。割合いやがらないで新参者を受け入れる、自分たちの食い扶持を減らしても。そのような部落と関わっていきたい。
 部落とは、そういう社会的存在ではないか。

 「部落史」の終わり(畑中俊之氏著・かもがわ出版)のP127以下からの引用です。


「人権の歴史とは、このような様々な”集団”の錯綜するなかで、様々な質と量において同質性を強制される現実に対して、”集団”の理不尽さから個の自立と自由を擁護して、個人としての自己決定(実現)の権利をいかにして獲得・発展させるのかという闘いの歴史であった。
 このように、そもそも、人権とは、個人としての自己決定(実現)の権利であったはずである。この基本に立脚して考えたならば、個々人各々に”違う”存在であることはより明瞭になるだろう。人として一人ひとり”違う”ということが基本に置かれてはじめて、個の尊厳が維持されるのである。それを無視して、たとえば、”女だから”、”障害者だから”、”日本人だから”などという同質性が一律に押し付けられること、そのことが人権侵害なのである。”「部落民」だから”ということでの強制も同様の人権侵害であったことは言うまでもない。個としての在り方において、各々が”違う”存在であるという確認に立つことによってはじめて、自立した対等の関係のもとで、人間平等(対等)という理念が生きてくるのである。”違う”ということを個のレベルで確認するからこそ、人間として”違わない”ということが真に言い得るのである。」

 
 "「部落史」の終わり"の「人権観・歴史観・人間観」には 明らかに卑小化解釈がある。というよりは、「この著書が本当にこのような思想的根本に立って書かれているか、誰か検証してください」の方が心情としては近いです。



☆「部落史」の終わり ヒロイヨミ☆

「部落に生まれてきたことの どこが悪い・何が違う」は二つの相反する意味を持っている。「どこが悪い」は「部落に生まれたこと」と「部落に生まれなかったこと」との間には違いがあることを肯定した上での問いかけ(そこに自己のアイデンティティーを求める生き方を象徴した言葉)。「何が違う」は「部落に生まれたこと」と「部落に生まれなかったこと」との間には違いがないことの訴え(そこに違いがあるかのように言われることに対する講義を込めた言葉)。

「部落民」であることを隠すのか、宣言するのかまたは、卑下するのか誇るのかの二者択一の生き方ではなく、「部落民」であることを積極的に否定する生き方というもう一つの選択肢があることを言わなければ成らない。


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