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2002年07月31日(水) 「ケガレ意識」701〜21世紀

人類史の中でもっとも長く展開するのは、原始共産制・無階級社会とよばれる身分・階級のない時代です(9000年以前ころから紀元前3〜2世紀ころまで)。
 しかし、大陸から稲作や鉄が伝わってきた弥生時代(紀元前3〜2世紀から紀元後2〜3世紀)になると 身分や階級があらわれました。各地のムラの間で余剰生産物や土地の所有をめぐる争い(戦争)が繰りひろげられ、各地に首長や小国をうみだしていきました(「漢書地理志」では100余国とされています)。
 中国(漢)が朝鮮半島においた郡の1つである「楽浪郡」に使者を派遣して、あいさつをして貢物を献上する(朝貢)という外交が始まり、中国の正史である「後漢書東夷伝」には 西暦107年に、「生口(せいこう)160人を献じ、請見を願う」とあります。
 この「生口」は奴隷のことらしく、「もの」としてやりとりされる人間のいたことがわかります。
 「倭国大乱」の時代の末に成立したのが、女王卑弥呼を盟主とする「邪馬台国連合」です。「魏志倭人伝」によると人々は、女王、それを補佐する男の王、大人(たいじん=各地の首長)、下戸(げこ、一般の人びと)、奴婢(ぬひ、最下層民)の身分にわかれていました。「奴婢」は、男が「奴」、女が「婢」であり、女王卑弥呼が死去した時に100人以上の奴婢が殉死させられたといいます。
 人間を人間として扱わず「ものをいう道具」として扱う社会の仕組みが、このころできあがりつつありました。
 このころ女性差別も発生したと言われています。自然、呪術の持つ意味が大きかった縄文時代にくらべ、農業、戦争が中心の弥生時代では母権より父権が強くなり、土地、財産も男性に所有されることが多くなっていったと言われています。 

 7世紀後半ころ、律・令という法律を中心に国家体制を整える古代律令体制という新しい社会の仕組みが成立しました。大宝律令が制定・施行された701年から翌702年は、「天皇」という称号が正式に公文書に採用され、「元号」の使用が恒久化され、「日本」という国号が唐へ派遣された遣唐使によって伝えられます。
 大宝律令は その中国の唐から導入されたものですが、差別という視点に立った時、「貴・賤」といった観念も中国から持ち込まれたことが大きな特色であると言えると思います。
 古代日本における被差別民は、源信『往生要集』に「貴賤」とあるように、「貴」に対する「賤」です。それは天皇と賤民の成立というカタチをとって現れました。「貴」の究極にあるのが天皇で、皇族、貴族がこれに続きます。支配者は「貴族」とされ、人民は「良民」と「賤民」にわけられました。大王という名から変わった天皇は、支配者の中で一段と超越した地位に立ちました。
 支配者たちは それまでの「大王」を 豪族とは異なる超越的・申請なものとするため、「天皇」の(中国の道教では最高の神をさす)言葉に置き換え、自分たちの利益を守ろうとしたと思われます。天皇がそれまでの大王とはことなり、生前から神格化されていたことは、「万葉集」におさめられた柿本人麻呂の歌「大君(おおきみ、大王)は 神にしませば 天雲(あまぐも)の 雷(いかづち)の上に 廬(いおり)せるかも」などからわかります。

 天皇という庶民から超越した、神にも等しい存在をつくった以上、それに対応する賤しい人々がいなければならない(神聖でないものがあってはじめて 神聖でないものが意味を持つ)というもとで、賤民は 作り出されました。天皇は、一般民衆を超越した存在として氏・姓(うじ・かばね)を持ちませんでしたが、賤もまた 天皇の対極の身分にある賤しい存在として 氏・姓を持ちませんでした。租税の負担の義務がなかったのも 人として扱われない(もの扱いの)賤民と(神扱いの)天皇だけであり、両者が密接な関係を持っていること、それらが政治的に作り出されたものであることがわかると思います。
 同じく、唐を模倣して、選民を 陵戸(りょうこ)・官戸(かんこ)・家人(けにん)・公奴婢(くぬひ)・私奴婢(しぬひ)の5種類に分けて蔑視・差別する「五色の賤」とよばれる賤民制が 令のなかに制定され 身分制度は整えられていきました。
 と同時に、インドのカースト制にもみられる「浄・不浄」の差別原理も古代日本にみられました。

 古代国家において、色彩は、身分を示す重要な標識だったといえます。こうした律令国家の形成とともに、支配される側の人民も色彩の規定をうけるようになりました。
 『養老令』衣服令では、最上位におかれる白色が天皇の服飾と定められました。 これは、「白」が清浄・神聖を象徴する色彩だったからです。ふつうの人民である良民は、黄色の衣です。そして、どんぐりなどで黒く染められた橡(つるばみ)の衣を着用するように義務づけられた階層が、五色の賤のなかでも最下層の家人(やかひと)・奴婢(ぬひ)です。黒は、凶事、不吉、不浄など、穢(けがれ)と結びつく色彩です。支配階級の華やかな色彩は清浄、神聖を示すものであり、黒はその対極にあるものでした。
 穢れをとりのぞく「禊(みそぎ)」「祓(はらい・はらえ)」にみられるように、ヤマト王権が形成されるなかで清浄と穢れという考え方が形成されたと思われます。
 色彩による身分差別は、インドや中国など古代のアジアにみられるもので、中国では「蒼頭奴婢」といわれ、青い衣の着用を強制されました。

 『養老令』戸令は「およそ陵戸・官戸・家人・公私の奴婢は、みな当色婚することとせよ」と定め、同じ種類の賤民としか結婚できないよう規定しています。
 しかし、現実には良・賤間の結婚は行われており、生まれた子ども(ダブルっち)を賤とすると身分制度のくずれや租税負担者の減少をまねくというわけで、良民と賤民との間に生まれた子は良民とされる(789年)という 律令制度の重大な方針転換を生みました。それは、良との結婚などによって 奴婢は奴婢身分から解放されるということです。こうして、古代賤民制は延喜年間(901〜923)の奴婢停止令により、10世紀初頭には 解体していきました。
  古代賤民制は、律令制の解体や奴婢の抵抗によって解体しましたから、「五色の賤」は近世の穢多・非人へとつながるものではありません。これと対照的に最近注目されているのが、古代に朝廷に服属して各地に移住させられた東北出身の蝦夷=俘囚(ふしゅう)です。彼らが近世の賤民の源流ではないかとする学説があります。今も西日本から関東にかけての地域で部落差別が根強いことの理由が、移住民でしかも古代において差別された身分が祖先だからであるとされています。たしかに地域的にみると興味深い説ですが、古代後期の場合、荘園・公領のなかの村落は、それぞれの荘園領主による私的支配を受けていたのですから、ある村落が他から特別に賤視されてそれが固定化されたとは考え難いといえます。
 
 「貴・賤」、「浄・不浄」の2つの差別原理のうち、律令制とともに導入された「貴・賤」の観念は10世紀初頭に解体したものと思われますが、その一方で、「浄・不浄」の差別原理の方は、長く日本社会に根強く残ることになりました。
 「浄・不浄」の原形は、仏教が伝わる以前からみられたはらえ(祓)・みそぎ(禊)など古来の習俗にもみられますが、方違(かたたがえ)、物忌(ものいみ)などの陰陽道や、死や出産を穢(けが)れたものとする観念として生き続いているといえます。
 禊とは、「川の水を浴びて罪や汚れを払うこと」となっています。「水に流す」という言葉は現在もあり、「朝シャン」も不浄をはらって一日を過ごそうという意味で、同じ原理がはたらいているといえるかもしれません(今は環境問題もあってあまり流行していません)。
 また、親族を亡くした人が新春の年賀状を出さないのは、これは死による穢れをもつからで、論理的に、親族を亡くしていない人が「喪中」の人に年賀状を出すことは何ら問題はありません。「忌引」も歴史的には同様の習俗によるものです。
 その他にも、病院や旅館・ホテルなどでの四号室・九号室の欠落、大峰山などの女人禁制等々、日本には「穢れに触れる」ことを忌み嫌う因習が数々残っています。トイレ用のスリッパやタオルはトイレ専用になっており、洗濯する時も自分たちのものとは別に洗う家庭も少なくありません。昔は 死体や血から悪しき力が発生し、強い力で伝染すると考えられていたので、現在でも近親者の死後、喪に服すとして四十九日間(家にこもって)行いを慎み、精進料理しか食べず、殺生を嫌います。大相撲の土俵・能舞台・トンネルの貫通での「女人禁制」の理由は、産穢と血穢です。21世紀を迎えた今日においても、穢れ意識からいまだに抜けきれていないのを感じます。

 さて、古来の習俗にくわえて、仏教の肉食や殺生の禁忌(タブー)もまた「浄・不浄」の差別原理を増幅させました。
 天皇・公家などの貴人にかわって「穢れ」を取り除く人びとが必要とされることになりました。不浄を浄化する行為そのもの(掃除など)や、従事者を「清目(きよめ)」といいます。清目は、中世の「ひにん」の最も大きな仕事でした。

 また、穢多という言葉がわが国で初めて登場した文献である 鎌倉時代の辞書『塵袋』に「キヨメをエタというは・・・根本は餌取(えとり)というべきか」とあるように、動物を解体する「餌取」、つまり屠者(としゃ)も清目を構成する人びとでした。

 中世社会では、彼らが河原に居住していたため、「河原者」ともよばれました。河原の地は氾濫すると居住や耕作ができなくなるため、土地に税がかからず、貧しい人々が流入しました。住民は「河原者」として もの乞いをする人たちやハンセン氏病患者とともに 中世社会で選視されました。(日本において長く差別の対象となったハンセン氏病は、仏教でも、前世の悪業によるものとして、彼らを差別の対象にしました。そうした彼らを救済するために、鎌倉時代、忍性あるいは良恵が奈良坂に建てた施設を北山十八間戸といいます。仏教の功績は否定できませんが、その限界に眼を注いでおかねばならないと思います。)
 十三・十四世紀以前は、神仏の奴婢として「聖」なる集団の一角を占めたこれらの人々が、この時代には一転して、宗教的に穢れを連想させる仕事に従事しているという理由で、穢多と呼ばれ、「賤」視されることになったのです。
 ただ、このように「穢多」という言葉はできあがりましたが、「穢多」という身分はこの時代では固定されていませ。「ひにん」も「えた」も言葉の上では同じでも、江戸時代のそれらとは違っており、賤視はされていたけれども、政治権力によって統制、管理を受けていたわけではありませんでした。
 豊臣政権および初期の徳川政権では、当時の民衆の一部分が「穢多」身分に政治的に編入され、彼らに対し 当時賤業とみなされていた仕事(主として皮革業)が一律に強制されていきます。決してその逆(部落の先祖の人々が賤業に従事していたから差別され部落ができたというもの)ではないことを ここで強調しておきたいと思います。
 中世社会には、彼らのなかから洗練された文化(東山文化など)が多く生まれたことは見過ごすことはできません。その約500年前の室町時代の文化を今に伝えるものとして、京都の鹿苑寺金閣と 慈照寺銀閣があります。
 後者の慈照寺庭園は、「山水河原者(せんずいかわらもの)=庭を造る河原者」とよばれた善阿弥の子孫たちのもつ技術・才能を、時の将軍足利義政が吸い上げて東山文化につくりあげたものです。
  善阿弥の孫の「河原又四郎」は、自分の生涯を振り返り、
「それがし一心に屠家(とか)に生まれしを悲しむ。ゆえに物の命、誓いてこれを断たず。また財宝、心してこれを貪らず。」(出典:鹿苑日録 1489年6月5日)
 と述べています。彼の言葉から、賤視された河原者が自身の出生を嘆きながらも 誇り高い倫理観に到達していることがわかります。筆者(相国寺鹿苑院主)も彼らの生き方について、「いまどきの(一般の)人の所為は、屠者におよばず。」と敬意を表しています。
 時代はさかのぼりますが、日蓮宗の開祖日蓮は自分を「センダラ(インドの賤民身分)の子」と言い、華厳宗の僧侶明恵は「非人高弁」と名乗り、みずからを被差別民になぞらえて、その反骨精神をエネルギーにして万人の救済をめざす布教活動に従事しました。
 また、河原又四郎の誇りある言葉は、20世紀の「水平社宣言」にも継承されます。

 義政については、「応仁・文明の乱」をとめることができなかった将軍といったイメージが先行します。貴人・権力者に直属して仕事に従事しながらも、社会的に差別・賤視されるという構造は江戸時代以降の非人制度にもみられますが、東山文化のような洗練された文化をつくりあげた上級の武家(将軍)・公家はいません。
 
 近世日本、つまり江戸時代において「賤民」とされた人びとには、穢多(えた)・茶筅(ちゃせん)・鉢たたき・非人・猿飼(さるかい)などがいます。

 茶筅は葬送に従事するもので、地域によっては隠亡(おんぼう)ともいわれました。鉢たたきは葬送の場で鹿の杖で鉄の鉢やひょうたんを叩いて念仏をとなえるのがなりわいでした。 猿飼は、猿をつれて武家屋敷や町家をまわって、穢(けが)れを取り除くもので、「猿まわし」、「猿曳(ひき)」ともよばれました。
 非人は、物乞い・遊芸や刑場使役を業とする賤民で、良民でありながら心中に失敗して非人におとされた者もありましたが、その身分から解放されることもありました。
 穢多は、農業に従事する一方で、死(弊)牛馬の処理や皮革業も行なっており、戦国時代から江戸時代の前期にかけては、「皮多(かわた)」ともよばれていました。戦国時代になって、皮革製のよろいに対する需要が高まると、諸大名は彼らを城下町や農村において支配するようになります。江戸時代の穢多が農村に居住することになった背景には、こうした戦国大名の政策がありました。
 この身分差別は近世中期以降、さらに厳しくなり、広く庶民のなかに浸透していきます。「皮多」という呼び方が「穢多」に統一されていったのも江戸時代の中期でした。
 皮革業は、原始・古代社会からありましたが一貫して賤業視されてきたのではなく、平安時代から徐々に賤視され始め、戦国期にかなり強まってきていることが1558年の「信濃史料」などからわかります。ただ、この時期はすべての皮革業者が卑賤視されたのではなく、「堺市史」によると有力町人で茶道の大成に功績のあった北向道陳などの「皮屋」が賤視されていた形跡は見当たりません。
 のちの豊臣及び徳川政権の時代に、皮革業に対する賤視がいっきょに強められ、「かわた」(のちの「えた」)身分の人々に一律に賤業といわれる皮革業が押し付けられてきたと思われます。
  
 こうして同じ人間でありながら、身分制度が固定化され、世襲化され、法制化されていきました。
 
 人権問題は、すでに古い時代に発生していましたが、古代賤民制は奴婢停止令によって崩され、武士の出現による封建的身分の形成は戦国の大乱で崩され、この末期からの現在の部落問題につらなる近世身分制は 近代に至って「解放令」で 部落差別への終止符が打たれたはずでしたが、実質的な解放が行われなかったため、水平社運動が展開され、戦後ようやく 同和問題の解決を国策と取り上げられるに至りました。
 日本史をみても世界史をみても、平和時より長い戦時のほとんどが 政治的・経済的な差別を克服するためのたたかいです。
 誰もが自分の意思によって部落民に生まれ、男子または女子に生まれ、「障害」者に生まれ、ある人種に生まれたのではありません。「生まれという、個人に責任のないことによる差別が減少していくことが人類社会の進歩をはかる尺度」という市井三郎氏の言葉があります。

参考  高校日本史講座 (松井秀行)
   「人権のあゆみ」(解放出版社)
昨年、天皇が誕生日前日、「桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言したことは、歴史教科書問題や小泉首相の靖国神社訪問で ぎくしゃくした日韓関係を大いに好転させたと思います。
 本年6月開催のサッカーのワールドカップ(W杯)は終わりましたが、引き続き 両国民間での理解と交流は 深まっていかねばならないと思います。

 今日は 韓国の「李朝の時代の身分制度」について。

両班  東班(文官)・西班(武官)、税役免除の特権階級、ヤンバン
中人  医者・天文官・通訳など技術官僚、両班の庶子が世襲
常民  農民・商人・手工業者、俗に「サンノム」という
賎民  広大(クァンデ)・寺党(サダン)、芸人
巫げき、  シャーマン
喪輿軍、  墓堀人
僧・尼   儒教社会では悲惨
妓生
公私の奴卑、公奴卑は1801年解放
白丁、   屠殺業・柳器製造・皮革業・食肉業・農業

 賎民の中の「白丁」は、日本の徳川幕府時代の身分である「えた(extreme filth)」や「ひにん(non human)」に相当しました。
 1894年に、日本軍の後押しで行われた「甲午の改革」により 身分制度は 全て廃止されましたが、民衆の差別は残り、
 日本支配下で、朝鮮総督府により、戸籍に「屠業」、「屠獣業」と表記されたり、学校や官公庁に提出する履歴書に身分の明記を要求されるなど、新たな差別が生まれました。
 こうした社会情勢のもとに、日本支配下の朝鮮南部の晋州で、「白丁」の張志弼と、非「白丁」の姜相鎬により衡平社が結成されました。「衡平社」の命名は、ハカリのように正確な平等を理念につけられました。衡平社は水平社に刺激され、水平社宣言(Declaration of the Levelers Association)の翌年1923年4月に結成されました。
    
 運動は、路線の違いなどから分裂や統合などもありましたが、子弟の教育・生活保障・差別の糾弾などを中心に全国的に精力的に展開されました。また、日本の水平社との交流なども官憲の監視・妨害にもかかわらず行われました。しかし、それも1931年に途絶えてしまいました。

 1927年には「高麗革命党事件」、1933年には「衡平社青年前衛同盟事件」と称した日本支配下の「手入れ」が行われ、1935年「大同社」と改名され、運動の内容も融和的なものに変化し、侵略戦争への協力を余儀なくされて 衡平社の幕を閉じました。

解放後の「白丁」差別は、朝鮮戦争の混乱に埋もれてしまい、現在は南北共に表だった差別はあまり無く、解放運動組織は韓国にはないようです。しかし、「白丁」差別は 農村部の古い世代や 都市部の低所得者層の間に まだ多く残っているとのことです。

  この「李朝の時代の身分制度」については、「半月城通信」http://www.han.org/a/half-moon/index.html を参考飼料とさせていただいています。


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