たりたの日記
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夕食を終え、病室のベッドのに横になる。 今日も、ラウンジで本を読んだり、お見舞いに来てくれた友人や家族と過ごしたり、リハビリをしたりと、病室の外で過ごすことが多かった。健康な時の日常とあまり変わらない時間を過ごせたが、明日からしばらくはICU、管に繋がれ寝返りもままならない数日間を過ごすことになる。 ここまでは、心の平安は保てたが、身体的な痛みや不快感の元ではどうだろう。わたしのヨガ力が問われるところだ。 そう、ヨガについて昨年学んだことの中には、自己コントロールに至るまでの修行があった。明日からの日々のために、その修行について復習しておこう。幸い、このiPhoneには、ニケタンのヨガ指導者養成講座で書いた卒論の原稿が入っている。 また、柳田神父のキリスト教的ヴィパッサナー瞑想で学んだことも復習。やってくる感情や肉体的痛みに飲み込まれることなく、それを客観視するということ。 そして、祈り。わたしが祈れない時にも、たくさんの友人たちが、家族が、わたしのために祈ってくれているということ。その祈りに支えられる日々になるだろう。
第二段階 ニヤマ(Niyama)<勧戒 > これは心身を保護し、精神の成長を助けることを目的としたもので、「禁戒」が対他的であるのに対し、対自的なものである。『ヨーガ・スートラには』清浄(シャウチャ)、知足(サントシャー)、苦行{タパス}、聖典読誦(スヴァーディヤーヤ)、神への帰依(イーシュヴァ・プラニダーナ)の5つのニヤマが挙げられている。 シャウチャ( 清浄) これは、心身の浄化で、呼吸器、内臓器官、体液、神経などの内部組織の浄化をも意味している。心身を浄化することで、感覚的な能力と霊性的能力が開発される。自分の生命にとって何が自然であり、不自然であるかという認識能力が研ぎ澄まされるのである。 身体、思考、言葉の浄化の他に、食べ物も清らかでなくてはならないという考えがある。すべてを支えている食べ物はブラフマン(創造主)の一側面に他ならないと考えられており、一口、一口が神に奉仕する力を与えてくれるのだという気持ちで食さなければならないとする 以前、「キリスト教的ヴィッパサナ瞑想による黙想会」に参加した際、食べる瞑想の指導を受けた。ひと噛み、ひと噛み、その食材の食感や味わいを十分に意識し、観察し、その食物が自分の体内で栄養となることを心にとめながら瞑想しつつ食するというものだったが、日頃、いかに無造作に食物を食しているか反省したことだった。身体のケア、環境を清潔に美しく整えること、つまり丁寧に生活するということが、このシャウチには含まれるのだろう。 サントーシャ(知足)これ は、与えられた境遇に不満を抱かないということであるが、ヨーガの修行によって人間に内在する様々な資質に目覚め、それらが明らかになっていくと、このことは積極的な意味を持つようになる。つまり、眼前に生じてくる出来事の全てに満足し、どのような状況にあっても、幸福感を覚えることができる。健やかな心身の状態を保ってこの人生を生きていくことができる。 この教えを聖書の中にも見出すことができる。「すべての事には時がある。神のなさることは時にかなって美しい」という「伝道の書/コヘレトの言葉」3章の中の言葉だ。この信仰に立つ時、どのような状況においても感謝し、そこに喜びを見出すことができることを、コヘレトは語る。ヨーガにおしても、キリスト教においても、神に近づく道として自分の与えられたものを感謝して受け取るという在り方が求められることが示されている。 タパス(苦行)タパスという言葉の語源は「燃やす」「焼く」「輝かせる」「苦しむ」「熱で消耗する」と言う意味のタブという語である。したがって、タパスとは、人生の最終目標に到達するために、いかなる状況の下でも、燃えるように激しい努力をすることと考えられる。浄化、自己鍛錬、禁欲にはそうした行為が必要であり、あらゆる精神修養はタパスの実践であると見なすことができる。タパスとは、神と結びつくために自覚的に努力し、この最終目標に到達するのを妨げるすべての欲望を焼き払ってしまうことである。価値ある目標は人生を輝かせ、浄化し、神聖にする。 タパスには3つの種類がある。身体に関するもの(カーイカ)、言葉に関するもの(ヴァーチカ)、心に関するもの(マーナシカ)である。また、禁欲(ブラフマチャリア)と非暴力(アヒンサー)は身体のタパスである。利己的な目的ではなく、いかなる報酬をも期待せず、確固たる信仰心で働くことがタパスであり、このタパスによってヨーガ行者は身体と心と人格を高めつつ、最終目標に到達してゆくのである。また、こうした努力を続けることで、多くの生活習慣病、心身症、ストレス関連疾患を克服し、健やかな人生を全うすることができる。 聖書にはこういう聖句がある。 「わが子よ。主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはならない。なぜなら、主は愛するものを鍛え、子として受け入れるものを皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ人への手紙 12章5、6節) スヴァーディヤーヤ(聖典読誦)スヴァとは「自己」、アディヤーヤとは「学習」あるいは「教育」を意味する言葉である。つまり、自己の教育ということになる。具体的には聖典を良く読み、その教説を声を出して唱えることで、聖典の中に示されている神様の生き方や性格を自分の生きる指針にするのである。B・K・S・アイアンガー氏は、その著書「ハタヨガの真髄」で次のように記しているが、これは真の学習がどういうものであるかを如実に示している。真の学習はその人の血肉となり、生き方を変え、自己の存在の源へと繋がるに至ると私自身、体験の中で知らされたことである。 <スヴァーディヤーヤを通じて体得した思想はいわば血流に入り込むようなもので、その人自身の生活と生命の一部になるのである。スヴァーディヤーヤを実行する人は、人生という自己自身の本を読み、同時に書き、改訂していくから、人生観にも変化があらわれてくる。すべての存在は楽しみのためよりも崇拝のために存在するのだと理解するようになり、すべての存在が神であり、自己の中にも神が存在して、自分を動かす力は全宇宙を動かす力と同じなのだと悟るようになる。> これまでに体験したことであるが、何かについて学びたいと願った時に、不思議なように、自分の目の前に、書物が現れたり、それを学ぶ場所や人の情報がやってきたり、決して自分では見出せないような道筋がいつも用意されてきた。そのひとつひとつは別々のことのように感じられるが、スティーブ・ジョブズが言っているように、人生での全ての点が線で繋がるという体験を自らしてきたし、今もなお、新たな点ができ、またその点がこれまでの点に繋がっていくのが分かる。 イーシュヴァラ・プラニダーナ(神への帰依) イーシュヴァラとは自在神、プラニダーナは請願を意味し、自分の行動と、意志を神に捧げることである。インドの神概念は日本のそれとは異なり、人間が存在しようがしまいが自ずからこの世界に存在している自在神という神概念がある。旧約聖書にみられる。「私は在ってあるもの」という神概念と同質の概念だと思われる。ヨーガ行者は、こうした自在神である、絶対者ブラフマンや真我(アートマン)と一つになるまで自分の意識を高めようとするのであるから、この自在神への祈り、祈願、請願なくしてヨーガ修行は成り立たず、神と合一する三昧の意識状態には入れない。 私自身はキリスト者であるので、他の神という味方をするならば、ヨーガでの自在神は異端の神ということになる。しかし、自在神が、在って在る者、この世界の創造主であり、今もなお、聖霊としての神が我々と共にあり、イエス・キリストを自分の心の内に迎え、その心と一つになることは、まさにヨーガの世界での三昧と同じ体験と考える。その文化的背景、神の呼称は異なっても、同じ唯一の神のことがここに示されていると考える。そうした意味ではこれまで様々に学び、また請願してきた神を変えることなく、ヨーガの哲学や考え方、その修業の在り方によって、わたしの信じる神への信仰をさらに深め、より実践的な信仰生活を行うことができると信じている。同様にインドの神概念とは異なる神概念を持つ日本人も、命の源である神の存在に目覚め、ヨーガの修行を通して、自らの信仰を高めることができると考えている。 B・K・S・アイアンガー氏は、その著書「ハタヨガの真髄」で、このように語っている。「すべての存在が神に属することを知っている者は、うぬぼれの心に汚されたり、権力に飲み込まれたりしないだろう。また利己的な目的のために、へりくだって悪に屈することもないだろう。彼らが頭を下げるのは、敬意を表すべきときだけなのだ。バクティ(崇拝)という水が流れて心のタービンを動かすと、精神的な力と輝きが生まれるのである。バクティを伴わない肉体的な力は致命的であり、人格的な強さを伴わない崇拝は麻酔薬のようなものである」 と語っているが、宗教的な教育や訓練が根本的に乏しい日本の文化の中では、ヨーガで言われる、神への帰依、神の崇拝が、人格的な強さを伴うことなく、麻酔薬のように働き、とても危険な状態にしてしまうことが危惧される。初めはヨーガ同好会で始まった「オーム真理教」が集団で反社会的な犯罪を犯すに至ったのは、このことの一つの顕れだと見て良いと思う。ここには道から離れてしまい、自らが神となってしまったリーダと人格的な強さを伴わない信者の盲信の結果だと思う。間違った在り方でイシュバラ・プラニダーナを捉えると神への帰依が殺戮や破壊をも生む。今なお多くの国々、人々が誤ったイシュバラ・プラニダーナによって苦しんでいることを思う。そうした国や組織のリーダーが本当の意味のイシュバラ・プラニダーナに目覚めることを願って止まない。
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