たりたの日記
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2013年04月14日(日) 今日は死ぬのにもってこいの日

礼拝の後、一年に一度の墓前礼拝に参加する。
ここ7年間、教会墓地での墓前礼拝に参加することはなかったのだが、今日は日曜日の午後に何も用がなく、牧師の車に乗せていただき墓地へ。
百合の花の描かれた「墓前での祈り」の式次第の説教題を見てはっとする。
「今日は死ぬのにもってこいの日」
あぁ、このフレーズ、最近読んだ本の中に出てきた詩、たしかアメリカインディアンの詩だった・・・そうだ、4月1日の文学ゼミの課題図書、鶴見俊輔著「アメノウズメ伝」の中で引用されていた「今日は死ぬのにとてもよい日だ」に始まる詩。

墓前での牧師の説教でナンシー・ウッド(Nancy Wood)著「今日は死ぬのにもってこいの日( 原題"Many Winters")」の存在を知る。二つの異なる本から同じ言葉が届いた。どうやら今この本に出会う必要があるようだ。さっそくアマゾンに注文した。

「今日は死ぬのにもってこいの日だ」という詩に、わたしはメイ・サートンの「肥沃で、すこやかで創造的な死」という言葉を思い出した。

2001年4月1日のたりたの日記<メイ・サートン>の中でこのように書いている。

メイ・サートンの「独り居の日記」(みすず書房)を読む。
そこから立ち上ってくる、部屋のにおい、庭のたたずまい、何より彼女の深い孤独に慰められる。私が自分の内に培いたいと思っている強靱な孤独。彼女の自然への想い、とりわけ花々へのそれに共感する。
彼女は私たちの魂を自然から、あるいは純粋な思索から引き離す日常の雑務のなかで、庭つくりをこのように見ている。
『..............そこへいくと庭つくりはまったく趣きが違う。広く”聖なるもの”ー成長と生誕と死ーに向かって開かれているからだ。花々の一つ一つがその短い生命のサイクルのうちにすべての神秘を包んでいる。庭のなかではわれわれはけっして死から、あの肥沃で、すこやかで創造的な死から、遠いところにいない。』


集中治療室にいる義母を思う。彼女にとってこの世での命の終末はそのままイエスと共に生きる新たな生への始まり。彼女が長い生涯愛し続け、生きることの真ん中に置いていたイエスのところへと向かうこと。彼女の日々が主に守られ、平安であることを祈っている。
豊かな死はしかし、送る側には痛みであり、その時が間近に迫っていることを思うと心は乱れ、緊張し、どのようにそれを受け止めれば良いのか右往左往するのである。
だから今この詩なのだろう。死、そこにある豊かさはそれを迎える者にも、送る者にも等しく差し出されているということ。


ナンシー・ウッド著「今日は死ぬのにもってこいの日」の中のこの詩をここに記しておこう。


今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

Today is a very good day to Die.
Every living thing is in harmony with me.
Every voice sings a chorus within me.
All beauty has come to rest in my eyes.
All bad thoughts have departed from me.
Today is a very good day to die.
My land is peaceful around me.
My fields have been turned for the last time.
My house is filled with laughter.
My children have come home.
Yes,today is a very good day to die.


たりたくみ |MAILHomePage

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