たりたの日記
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2009年07月27日(月) 葛西善蔵の「哀しき父」 を読んだ

久々の文学ゼミに参加。

テキストは葛西善蔵の「哀しき父」
一度ざっと読んだ時には、事実が淡々と語られ、何も訴えてくるものがない文章だと思った。

ところが二度、三度と読んでいるうちに、わたし自身の気持ちが沈静させられるというか、慰められるというか、良い気持ちにさせられていることに気づく。

じめじめした陰湿な梅雨の時期のこのうえなく不健康な長屋のようすや、このうえなくみじめで貧乏な生活が描写されているのに、そこに心地よさや慰めを感じてしまうのはどういうわけだろう。

けっして美しいものを描いてあるわけではなく、むしろ汚いもの醜いものが描かれているというのに、そこに美しいものを感じてしまうのはどういうわけだろう。

何が、人に心地よさや美しさを感じさせるのか、それは、この作家の場合、表現されたものとは裏腹に、作家自身の人格、敢えて言うなら、その個が持つ、エッセンス、エネルギーそのものが持つ、心地よさ、美しさが伝わってしまうからなのだろう。

作家が、思うことを、淡々と書けば、そこには自ずとその人の魂のカタチが滲んでくる。
文章を味わう味わい方には、書かれている思想やストーリーの面白さとは別に、その作家の持つエッセンスを味わうことでもあるのだろう。

ゼミの中では、わたしがぼんやりと考えていたそのことに、共感し、意味づけをしてくれる若いメンバーがいて、この作家について、改めて興味を覚えた。

「悪魔」という作品が面白いそうだ。そのうちテキストに取り上げられることだろう。


参考:青空文庫  哀しき父(葛西善蔵)

   http://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card1070.html





フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

葛西善蔵(1925年撮影)葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年1月16日 - 1928年7月23日)は、日本の小説家である。青森県弘前市に生まれた。

略歴 [編集]
生家は広く商売をしていたが、善蔵が2歳のときに没落、一家は北海道や津軽地方を転々とした。善蔵は母の生家の碇ヶ関村に住み、そこで小学校の課程を修了し、商家の小僧をはじめさまざまな職業に就く。文学を志して上京し、東洋大学や早稲田大学の聴講生となるなかで、舟木重雄や広津和郎たちと知り合い、同人雑誌『奇蹟』のメンバーとして迎えられる。1912年、『奇蹟』創刊号に「哀しき父」を発表して、作家としての力量を発揮した。

その後は、しばらく故郷と東京を往復しながら作品を書くも、生活は困難をきわめた。1919年に創作集『子をつれて』を新潮社から刊行し、作家としての地位を確立することはできたが、家族を養うことは難しく、それがその後の葛西の生活におおきな影響をもたらした。葛西の作品は、ほとんどが自らの体験に取材した〈私小説〉といってよいもので、そこに描かれた貧困や家庭の問題は、その真率さで読者に感銘を与える。一方、妻を故郷において東京で別の女性と同棲して、子もなしたことへの批判は当時から根強く、それへの反発が葛西の作品の底流にある。40歳に近づく頃から生活も荒れ、執筆もほとんどが口述筆記となり、嘉村礒多がその任にあたった。肺病が重くなり、1928年、41歳で死去した。

生活の悲惨さのなかで、それを逆手にとったような葛西の文学には、人をひきつけるところがあり、それが葛西の作品を広めているところがある。故郷の弘前では、石坂洋次郎や戦後代議士となった津川武一が、葛西文学の顕彰のために力をつくしていた。


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