たりたの日記
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2008年09月22日(月) 夏目漱石「こころ」

この日、正津勉文学ゼミの日。9月8日の夏目漱石著「こころ」の後半。
けれども、体調を崩し、一日ベッドにいた。
前回のゼミで仲間の意見がおもしろく、今日も楽しみにしていたのだが。


ここでテーマになっているのは「罪」の問題だと思った。
「先生」は「私」に恋は罪悪ですよ>という。
人を恋したために、同じ女性を愛する友人を裏切り、その友人が自死する。先生はその女性と結婚するも、自分の犯した罪に苦しみ、自殺してしまうという筋。

先生を慕う私は
<(先生は)いつか私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷ややかすぎるから、わたしは胸と言い直したい。肉の中に先生の力がくい込んでいると言っても、血の中に先生の血が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。・・・>

と語るほど、先生に入れ込んでいる。イデアへ向かうプラトン的な愛、プラプラトニックラブを思った。

自分の心の内を妻にさえ明かさない「先生」が、しかし、「私」には心を開いていく。<私は死ぬ前にたった一人でいいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはその一人になれますか、なってくれますか>
と「私」に訴え、「私」は自分に宛てられた「先生」の遺書で、「先生」の誰にも打ち明けることのなかったこころの内を知ることになる。

さて、遺書によって「私」に伝えられた遺書は読者に向けて公開される。この先生のこころの内を我々はどう受け止めるかという開かれた問いの前に立たされるのだ。

では、わたしは何を思ったか、その事を書いておくことにしよう。
思ったことは、人間は自分の「罪」とどう向かい合うのかという命題。
「先生」は父親の死後、遺産を巡って叔父のやり方に酷く傷つき、人間不信に陥るのだが、一人の女性を巡って、友人を裏切り、死に至らしめる事で、そんなことをしてしまう己に傷つき、自分への不信は病のように彼のこころを支配してゆき、死ぬより他の解決がないところまで追い詰められてゆく。

救いがない。罪を犯した自分とそれを断罪する自分向かい合っている八方塞がりの状態。ここには、そういう自分も含む人間を空の上から、あるいは長い人間の歴史を通して観る視点、神の眼がない。

人間は罪を犯す生き物であるということ。どんなに努力してみても、結局は人を傷つけ、神を裏切ることでしか生きていけない存在であること。絶望的だ。けれど、そういうみじめなわたしが生きることを許されているということを実感した時、人間は虚無から抜け出すことができるのかもしれない。

命の源にある存在が、あなたの罪はゆるされたと告げる。罪に打ちのめされつつも、自分を愛せ、人を愛せ、世界を愛せ、生き抜けと、背中を押して、前進ませる。そこに気づけば、自分の罪に自家中毒することなく、それを愛する力へ、生きる力へ変換する事ができるのではないだろうか。


「水の中の罪」、昨日のアダムとイブの原罪と、なんだか、罪づいているけど、このくらいで、もう罪からは解放されたいものです。
今度のテーマは愛がいいな。プラトンも登場してきたことだし。









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