たりたの日記
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| 2006年05月10日(水) |
聖書研究―フェミニストの視点から |
今日から始まった「聖書研究―フェミニストの視点から」に参加する。 わたしたちの教会にこの4月に赴任された韓国人女性牧師、梁(ヤン)先生が導いてくださる。 一回目の今日は、話先生からの提案に基づき、どういう聖書研究をしたいかについて話合いをした。 牧師の話を一方的に聞くという聖書研究ではなく、それぞれが読み取った事を出し合い、共に読みを深めていくという、聖書研究はずっとわたしが求めてきたことだった。 またフェミニストの視点から聖書を読むということも、長い間、心で暖めて来た事だった。その両方のことが、ここへ来て具体的なことになったことがとてもうれしい。 この事もまた、わたしの50代の重要な要素になることだろう。 この日の梁先生のレジメがとても心に響くものだったので、了解を得て、ここに添付した。 また、2001年9月16日と9月18日の日記に書き、その後フェミニスト神学というタイトルでエッセイのコーナーに載せた文章を、久し振りに読み返してみた。 そういえば、この講演を聞いた時、わたしはこの会場で、当時神学生だった梁さんを見かけているのだ。 あの時には、彼女がわたしの通っている教会に赴任してくる事を考えてみることもなかった。しかし、ゆっくりと出会いは準備されていたのだ。あの時の思いが5年という時間を経て、今に繋がったような気がする。
聖書研究は毎週水曜日午前10時30分より、大宮シオンルーテル教会(大宮駅からニューシャトルで一駅、大成駅下車、徒歩5分)にて開かれます。教会員以外の方、大歓迎です。近郊にお住まいの方で聖書を学びたい方、どうぞご参加ください。参加費無料。
<梁牧師からの提言>
フェミニスト視点から聖書を読み直す
「フェミニストの視点」から聖書を読むということは、聖書が当時の時代や社会が抱えていた問題が反映されていることを理解した上で読む。聖書の登場人物たちはわたしたちと同じように、日々の悩みや葛藤の真っ只中で神の姿を求め続けた人たちであり、わたしたちはその生々しい姿から慰めと親しみを感じる。しかし、聖書を記録したのはある特定の人たちの手によるものである。特定した状況の中で書かれたものである。それゆえ、すべての事情がわたしたちの事情と重なりえると考えるのは誤りである。たとえ聖書の中の登場人物が女性であるとしても、特定なグループ(信仰共同体)の中での特定な人が、置かれた状況の中で使われる言葉を選択し、それに合うように書いている。それゆえ、登場されている女性の立場を生かしているとは考え難い。 このようなことを念頭におきながら、聖書66巻は男性の手によって書かれたということ。また、それは、そのグループを代表するエリート男性の手によって書かれたことを意識しながら読む必要がある。 また、聖書を読むときに大切なのは、自分の立っている位置の確認である。 わたしは �|�の始点に立って聖書を読むのか。�△修譴泙任坊腓韻討い浸訶世�あることを意識する。つまり、宗教的にあるいは社会的に疎外され、権力というものから遠く離れたところにいるたった一人の人に向けて、イエスが全身全霊をもって愛を注いだように、わたしたちもそのような一人を受け入れる立場に立ち切れるかどうかを問いかける姿勢。それを「フェミニスト神学」は表している。 現代の人々は沈黙を知らない。沈黙を知らない人は聖書から神が語ろうとしていることを聞き取ることができない。沈黙を知らない人は聖書の中で沈黙させられている人を見ることができない。沈黙を知らない人は神を沈黙させ、自分が神の代わりに語っているのである。 聖書に語られている物語の中にじっと沈黙したままの存在がある。社会の、あるいは教会の周縁に追いやられ、隠され、見えなくされている存在がテキストの行間にいる。このような存在の、声にならない声を聞くことによってこれまで見えなかったことを見るようにしていく。 わたしたちは、父権制社会の男性中心的構造の中で抑圧を受けたり、さまざまな決まりによって聖なる信仰共同体の外側に疎外されている人々の側に立ちつつ、聖書のテキストを読むことによって、イエスの意図した神の信仰共同体とはどんなものであったかを、より深く捕らえることをこの学びの目標としたい。聖書には現れている視点より隠されている視点が多い。宝隠されたままの島と同じ。それを探しに、探検に出かけよ〜!!! (参照;絹川久子『ジェンダーの視点で読む聖書』日本基督教団出版局)
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