たりたの日記
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2005年09月05日(月)  小山清「落穂拾い」を読む

         

小山清の「落穂拾い」をはじめて読んだ時、不思議な作家の不思議な小説を読んだと思った。
なぜなら、良い人ばかり、優しい人ばかりが出て来るからだ。それでいて、そのことが少しも鼻につかず、また退屈にもならない。絵空事のようでもあり、よほどリアリスティックでもあり、今まで読んだどの小説にもない方向と味わいがあるように思った。

この小説は、良い気持ちで最後まで読み、読み終えるとまた最初から読みたい気持ちにさせられ、何度も読んだ。好きな絵や好きな音楽なら何度も繰り返し見たり聴いたりしたい気持ちになるが、小説にはそれは珍しい。どうしてそういうことが起こるのだろう。読み心地が良いのだ。ストーリーを追うというよりは、そのエネルギーを楽しむといった感じがある。

作家そのものが良い人、側にいて心地よい人なのかもしれない。いえ、こういう言い方は御幣がある。わたしはこの作者会ったことはないのだから、作品からその人の性格や人格の全体を決めつけるべきではない。あくまでも彼の作品の中で、彼が表わした作家自身というべきだろう。

小山氏の作品の中で感じとれる作家の在りようというのは、気持ちの穏やかな人、高ぶったところがない人、自然体で自分を受け入れている人。他人に敵意や詮索やあるいは過度の関心を向けることなく、長すぎも短すぎもしない正しい計りで、きちんと相手の全体を把握する人。さらに言えば、その人も気がついていないような良いところを見つけ、感じ取れるような人。そういう人が傍らにいると誰でも心をゆったりとほどくことができるに違いない。そしてまた、作者がこの作品の中で、取り上げている「好きだった人」というのが、どれもまたそんな感じの人達だ。他人は自分を写す鏡というが、作者が描き出す人物一人一人の中に、作者そのものの性質や在り方、また理想や願いを見る思いがする。

自分の自画像に「ひょっとこの命」という題名をつけている夜店の似顔絵画家。
「凡の真実は語るに適せぬことを、いわぬがよいことを承知している」F君。
「卵から孵ったばかりの雛のような目をしている青年」を思わせる隣の窓辺の本を読む青年。
正直という徳で縁飾りをされているような芋屋のお婆さん。
苦境に在って高邁の精神を失わない古本屋を経営する少女。「僕」はその少女の眼差しのうちに未知の自分を確認するような気さえすると言う。
そして、自分と人との関係についてこんな願いを語っているのだ。
「その人のためになにかの役に立つことをぬきにして、僕たちがお互いに必要とし合う間柄になれたら、どんなにいいことだろう」と。
この願いは何かせつない。この言葉の向こうには人間関係で少なからず傷つき、それでいて人を求める孤独な心がすかして見える。

小山氏の人へ向ける眼差しはいい。暖かいが、きちんと本当のところを見分ける眼差しだ。うわべだけではなく、その人の内側にある美しさや哀しみも見えている。同時に、作者は自分自身の気持ちに対しても実に正直だ。どれも嘘偽りのない本人の真ん中を通ってきた言葉だということが不思議に分かる。だから、その描写を信じることができる。その人物が実在したかどうかとか、そういう事実があったかとかそういうことではなく、作家が自分の心に嘘をついていないことは明らかなことだ。

小山氏はやがて師事することになる太宰治を訪ねた時に持参した作品「わが師への書」にこのようなフィリップの言葉を引用しているが、これが、小山氏の作家としての立ち位置であることが分かる。それはこういうものだ。

「芸術家とは、つねに自らに耳を傾け、自分の聴くことを自分の隅っこで率直な気持ちで書きつける熱心な労働者なのだ。僕は、自分の思ひどほりの木靴を作るために働く村の木靴工と、人生を自分が見るがままに物語る作家の間に差別を認めない。」

落穂拾いの中で、小山氏は自分も含め、さまざまな職種や年齢の人間を同じ線の上で描いている。同じ尊厳を見出している。その眼差しの公平さに非凡を感じてしまう。それほど、人間は人を偏り見てしまうものだから。
書くという作業はこういうことでもあるのだと、新しい発見をしたような気持ちになった。

小山氏はキリスト教徒の親の元で育ち、加川豊彦や内村鑑三から影響を受け、18歳の時に高倉徳太郎から洗礼を受けている。後に教会から離れるが、小山氏の生涯の「生命」となっていたのは太宰治とイミタチオ・クリスチの精神であるあったと、斉藤末弘氏は語っている(近代日本キリスト教文学全集9、解説)が、イミタチオ・クリスチというのは、14世紀の宗教家、トマス・ア・ケンプの「キリストのまねび」という本の原題で、この「キリストのまねび」という本が、「聖フランシスの小さき花」とともに、「落穂拾い」の中に出てくる。キリストに倣って生きるというのが小山氏の行き方、理想だったのだと思う。
そして、小山氏の作品を読む時、このイミタチオ・クリスチの精神の片鱗がどの作品にも見え隠れしている。小山氏がキリストに倣って、少なくとも、小山氏が思うところのキリストの視点で人々を見つめ、描写したのではないだろうか。
「誰かに贈物をするような心で書けたらなあ」とこの小説の書き出しのところで書いているが、読む人の心に明かりを灯すような小説をこつこつと書くということが、彼なりの精一杯のキリストに倣う生き方だったのだろう。

靴屋が丹精こめて靴を作る。母親が髪振り乱して子供を育てる。本屋が本を慈しんで本を売る。そんなささやかな、日々の一生懸命が、そんなちょっとした思いやりのある行為こそがキリストに倣う生き方だと知らされるような気がする。
誰も彼もがキリストのようにすべてを捨てて十字架につけられなくてよい。イエスが人に望んだことはそういう「行動」ではないはずだ。まずは自らの貧しさに気づくこと、イエスに決して倣う事などできないと、そのことに痛みを覚えつつ、それでもなお倣おうと自分の器に従って誠実に自分に与えられた務めを果たすこと。小山氏のこの小説の中から、そんな励ましが聞こえてくるような気がする。


たりたくみ |MAILHomePage

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