たりたの日記
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2005年05月15日(日) ペンテコステの今日

ペンテコステ、聖霊降臨日。この日は教会の誕生日とも言われる。
イエスが復活し50日後の五旬祭(ペンテコステ)の日、イエスの弟子たちに聖霊が下り、彼らは突然、様々な国の言葉で語り始めたという。

今日は教会学校のお話の担当になっていたので、子ども達にペンテコステの話をする。はじめに英語で使徒言行録 2:1−4までを読み、子ども達に意味が分かるかどうかたずね、今度は同じ箇所を日本語で読む。言葉が違えば、語られている事が理解できないという事を体験させるためだ。

それに続いて、女の子と男の子のパペットを用いて、弟子達に聖霊が降りてきた場所に、ユダヤから遠く離れた国からやってきた男の子と女の子が居合わせ、その不思議な出来事を体験するというストーリーを演じた。

分級ではアメリカ人のAが、炎のヘアバンドを作る工作を指導してくれた。弟子達の頭の上に留まった炎を赤いセロファンと金色の紙などを用いて、炎を作り、ゴムひもで頭につけるというもの。アメリカ人の発想というのはほんと、おもしろい。

礼拝ではヨハネによる福音書 7:37−39 をテキストに説教が語られた。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおりその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

馴染み深いイエスの言葉だ。わたし達は渇いているだろうか。渇いていなければ、イエスが与える水を飲みたいとは思わない。わたし達は本来の渇きを見つめずに、他のもので心を満たそうとしていないだろうかという問いかけがあった。

わたし自身のこと。渇いていた日々があった。また渇く時がある。そしてイエスが与えてくれる水によって、生きた川が流れ出るのを感じる時がある。
祈る時、讃美する時、聖書の言葉を聞く時もそうだが、山の中を行く時、川の音を聞く時、野辺の花を見る時にも水は溢れて流れ出す。神が創り給うた自然が語りかけてくるからだ。
そしてまた踊る時も、歌う時にも水は溢れて流れ出す。それは神が創り給うたこの体が自らの表現を許され、命を得るからだ。
大切なのは、そこに大いなる力を感じとる事だろう。我が身から出た力ではなく、大いなる者が与える命、そして力。




【参考】

<使徒言行録 2:1−21>

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。

人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、、若者は幻を見、老人は夢を見る。 わたしの僕やはしためにも、、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 上では、天に不思議な業を、、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 主の偉大な輝かしい日が来る前に、、太陽は暗くなり、、月は血のように赤くなる。 主の名を呼び求める者は皆、救われる。


<ヨハネによる福音 7:37−39>

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。




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