たりたの日記
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2005年03月18日(金) 芥川龍之介を読む

今日は歯医者に行った他は珍しく家で過ごした。
午前中は家事をして、午後からはほとんど、ダイニングテーブルの上にノートパソコンを開いて読んだり書いたりしていた。

今日読んだものは、次回の文学ゼミのテキストになっている芥川龍之介の「蜃気楼」と、ネット図書館で読める芥川の作品をいくつか選んで読んだ。以前読んで好きだった「南京のキリスト」とまだ読んでいなかった「西方の人」そして遺稿とされている「ある阿呆の一生」

「西方の人」は、芥川の眼を通して語られるキリスト教。そこに描かれている詩的イエスに好感を持った。
1章の「この人を見よ」の最後に<わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである>という一文があるが、これこそがわたしの読みたいこと。
難しい神学書やキリスト教を宣伝するかのような伝道書ではなく、その人が受け止め、愛したキリストを知りたいといつも思っている。そしてわたしは芥川の視るイエスや他の人物や事象にかなり共感を覚えた。
このことはまた改めて書くことにしよう。

書く方は、今度の日曜日(受難主日)の教会学校の子ども達に話す話を書いた。受難の話を子ども達にするのは難しい。十字架に意味など、わたし自身、すっかり分かってはいないのだ。だから、知っていることを知識として語るのではなく、わたしが受け止めている十字架を語るしかない。題材に黒人霊歌の
Were You there 「あなたも見ていたのか」を用いることにした。話の中でこの歌を歌おうと思う。

そして、ふるさとの町の文芸誌に投稿する原稿のことを考える。
わたしが保育園の園児だった時に担任だったH先生はクリスチャンで詩人だった。学生の頃だったか、先生が出された詩集をいただいた。それから20年も経って、わたしが書いた本をお送りした。先生は喜んで下さり、地元の文学者達で発行している文芸誌に投稿を勧めてくださった。

ふるさとに帰省している時にはすぐに書ける気持ちがしたのに、こちらへ戻ってくると、ふるさとを離れた人間が、いったいどのような気持ちで、どのような事をどのような調子で書けば良いのか、はたと困ってしまったのだ。
けれども、書くことで再びふるさとと繋がることはわたしにとってとても大切な事だと受け止めている。
H先生から「ゆっくりでよいですよ」とメールをいただいた。ゆっくりふるさとに向かい合おうと思う。

そういえば、芥川龍之介を初めて読んだのはふるさとにいた小学生や中学生の頃、あの時の文学に触れたばかりの驚きにも似た気持ちは今もわたしの身体の中に残っている。
芥川ともふるさととも、新しい出会い直しだ。


たりたくみ |MAILHomePage

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