たりたの日記
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2005年03月15日(火) 牧野信一著「父を売る子」を読む ―カリカチュアのおもしろさ

今回のゼミの課題、牧野信一の「父を売る子」では、とてもおもしろい体験をした。
どのようにおもしろかったかといえば、この2週間、この作品を何度も読むうちに、わたしのその作品への評価がおもしろいように変化していったのだ。

そこで学んだことは、自分の第一印象のようなものは、案外当てにならないなという反省と、人にしろ作品にしろ、自分が分からないと思うもの、嫌悪感を覚えるものには、自分には及ばないエッセンスがあると考えて、簡単にうっちゃってはいけないという教訓だった。

まず、最初にこの作品を読んだ後の率直な感想というのは、そこに描かれている主人公である「彼」とその父親に、いやなオトコ達だなあという、どちらかといえば嫌悪感に近い印象を持った。妾の家で談笑している父と息子、息子の妻の悪口を二人して言い合うのだから始末に終えない。少しもかっこよくなく、ひたすら俗っぽい。二度目に読んでも、がまんして三度目を読んでみても、なんとも退屈で、苦痛すら覚えた。感想など一行も書けそうになかったので、ゼミの前日までうっちゃっておいたのだった。

ところがゼミの前日に風呂に浸かりながらもう一度読んでいて、一瞬はっと気づきのようなものが起こった。この作品への嫌悪感、まったく自分とは接点がないと思うその遠さは、いったいわたしのどこから来ているのだろう、むしろこれはわたしの側の問題ではないのだろうかという疑問だ。前回の課題になっていた、やはり父親と息子の葛藤を描いたカフカの「判決」という作品が思い起こしていた。ユダヤ人が描いた父親と息子の心理の方がずっと分かるし、その父と息子の葛藤はそのまま自分のものとして感じ取れるような近さがある。それなのに日本人の作家が日本語で書く小説の中の登場人物を分からない、自分とは無縁だと感じるのはぜんたいどういうことだろうかと自分に疑いを持ったのである。そこでそこの部分に思いを凝らしてみると、わたしは決して牧野氏のこの作品が分からないのではなく、分かりたくない、見たくないという気持ちがまずあって、そこへ近づくことを拒んでいるという事が見えてきた。

そこで再度読み返してみると、書き手の視点が自分の外にあるという事に気がついた。作者はかなり離れたところから自分を観察して書いていることが読み取れる。そこには自分への幻想というものが微塵もなく、むしろ自虐的とも言えるほど、自分というものを客観的に見て描いている。しかもそれだけでは足りずに、そういう自分を鋭く見抜いている妻の視点から追い討ちを書かけるかのように、我が身へのこき下ろしを妻に語らせているのだ。そしてその妻は洞察力に優れ、しかもどこか余裕を持ってなさけない夫を許している節がある。もしかして牧野氏はフェミニストではなかろうか。ゼミの直前には、わたしのこの作品への評価はかなり好意的なものに変化していた。
ところで自虐的と書いたが、この作品に悲壮感はなく、あくまで明るい。このおおらかに自分を裸にできる力量というのが、この作家のユニークさであり、強さではいのではないだろうかという気がしてきた。そう、この脱力加減には好感が持てる。ここで、作家が好きだと思えてきた。

わたしはゼミの中で、牧野氏のこの作品を翻訳して外国人が読むとするとかなりインパクトがあるのではないか、この作品には日本人しか表現できないユニークさがあると 発言した。彼のオリジナリティーというのは、日本の風土の中ではそれほどくっきりとしないとしても、日本の外を視界に入れた場合に、他の国の人間には特異なものとして、奇妙にもおもしろく映るのではないかと思ったのだ。父と息子との距離、妻と夫との距離、また母親と息子との力関係、そういうものは日本の中では良く見かける関係であっても、欧米の親子や夫婦の関係からするとかなり奇異に映るはずだ。そして、牧野氏はその奇異が奇異として見えていたという気がする。つまり、牧野氏は自分の外から自分を眺めるのと同様に、日本という国の外から日本のひとつの家庭の状況を描いて見せていると思えてきた。どっぷり日本の中だけに浸かっているのではないからこそ書ける、この国のユニークさがそこには浮かび上がってくる。

日本の芸術の持つオリジナリティーがむしろ、日本の外に置かれることで際立つということでは、この作品は浮世絵に通じるものがあるのではないかなどと突拍子もない考えが浮かんできた。例えば、ゴッホやルオーを見る視点で浮世絵を見るとすると、何て単純な線と色だろうとか、描かれている世界が俗っぽく、また表現があからさまで下品、芸術作品としての価値などないように見えてしまう。実際、当時の日本では浮世絵は外国に輸出する陶器などを包んだ包み紙ほどの価値しかなく、浮世絵の芸術的要素を見出したのは、その包み紙に驚いた欧米の人間だった。浮世絵の持つオリジナリティーと高い芸術性に気がついた海外の審美者によって、浮世絵は辛うじて保護され、ニューヨークやボストンの美術館は日本の美術館よりはるかに良い浮世絵を多く所有しているという始末だ。そしてわたしなどは、この浮世絵がゴッホなどにも大きな影響を与えたと知ってようやくその価値に気づいて、その絵の見方が分かってきた。牧野氏のこの作品をわたしはゴッホやルオーの油彩画を見るような具合で読んでいた。そうではなく、浮世絵は浮世絵の見方で見なければその価値は見えてこないと思ったのだ。牧野氏のこの作品を浮世絵に結びつけるのは唐突だが、ふとそんなことが閃いたのだった。

この浮世絵のイメージはゼミの翌日、この作品のことにさらに想いを巡らしていた時に浮かんできたのだが、そこからさらに導き出されたイメージというのがカリカチュアだった。そう、「父を売る子」はカリカチュアだ!と閃いた。これは、充分に風刺の効いた、洞察に富む人間描写だと言える。そうするとなんだか、大きなものを発見したように嬉しい気持ちになった。そうしてカリカチュアを見る目ではじめから改めて読んでみると、何ともこの作品の世界はおもしろいと感じた。どこか非日常的で、また可笑しくも生き生きとしている。もはや読んでいて退屈ではなく、思わず声に出して笑ってしまったほどだった。そして力のある風刺画のように、また浮世絵のように、その描写に無駄がなく、実にすっきりと整っていて、気持ちが良いのだ。その風刺に甘さはなくとも毒のあるトゲなどは隠しもってはおらず、ユーモアと人間愛に支えられている。そのことが気持ちの良さに繋がるのだろう。あれほど、おもしろくない、嫌だ、と思っていた作品を別の視点で読んでみると、まるで印象が違ってくるのだからおもしろい。とにかく牧野氏のこの作品をうっちゃらなくて良かった。この作品のおもしろさに気づいただけでなく、読む力が少しだけ広がったような気になっている。




牧野信一の「父を売る子}はここ↓から読めます。

http://mori.s9.xrea.com/text/titiwour.html








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