たりたの日記
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| 2004年12月12日(日) |
インマヌエル、神は我々と共におられる |
アドベントの3週目、クランツにろうそくが3本灯る。
説教のテキストは、マタイによる福音 1章 18−23
説教を聞きながらノートにメモしたこと
<ヨセフは正しい人であった>
ここで正しい人とはどういう人を言うのか イエスの山上の説教の中に「正しい人は幸いである。彼らは神を見るであろう」とある。正しい人とは良識と思いやりのある人
<恐れず妻マリアを迎え入れなさい>
その事がらに正面から向かっていきなさい。 神がわたしの人生にかかわろうとしておられる。
<その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である>
あなたの心は今どこへ向かっているのか。 あなたの心は神を迎え入れようとしているか。
神がまずこちらに向かっておられる。 よしんば、我々の心がどこへ向いていようと、神は我々の心に向いておられる。そ事に気がつくこと。インマヌエルを信じること。
インマは「いつも」という意味 エルは「神」
聖書が一貫して言っていることは、神はあなたと共にいるという事、 つまりインマヌエル。
ここまでがノートに書いたメモだが、わたしはこのことをどう受け止めるのか。この「インマヌエル」という言葉が今までになく、ハイライトを引いたように、自分の内側へと入ってこようとしていることは分かる。その言葉のはじっこをようやく掴まえたのかも知れない。 神が共にいます―何とも心強いことだ。しかし、これは安心や慰めだけを、いわゆる保護のみを表わしているとは思えない。神がひとときも休むことなく、わたしの傍らに在るということ、神の眼差しが休むことなくわたしに注がれているということ、このことはまた怖いことでもある。
正しい神が正しくないわたしを見ている。愛に満ちる神が、愛の乏しいわたしを見ている。強い神が弱いわたしを見ているのである。 神が共にいますということは、ある意味では、すべてがあからさまになり、神の前に、そういう貧しい自分をさらし続けるということだと思う。
自分を偽る、問題がない振りをする、物事を真っ向から見つめず、見ない振りをする…人間どうしの間ではこのようなことがまかり通るが、神との関係に置いてはそういう偽りの入る余地はない。
インマヌエル、神は我々と共にいます。 しかし、そのなんともみじめなわたしを神は見捨てることなく、最後まで共に歩いて下さるというのである。 どうしたって、そこには在り難さが、喜びが滲み出してくる。
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マタイによる福音 1章 18−23
18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
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