たりたの日記
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今年の冬至は12月21日らしい。ということはこれから10日あまりは、まだまだ日が短くなるということだ。1年で最も夕暮れ時が寂しく感じられる時なんだろうか。
わたしは暗い道が嫌いだ。子どもではあるまいし、若い娘というわけでもないから、薄暗がりの道を行くのにどんな危険があろうとも思われない。それでも暗くなってゆく道を行く時の心細さは7歳の頃と少しも変わらない。
今日は夕方、花屋へゆく用があり、先の方まで田畑の広がりが見える農面道と呼ばれている道を自転車で走った。暮れかけていることもあるが、どんよりと重たい雲が空を覆い、風は冷たかった。 何とも形容し難い寂寥感が湧き起こってくる。 これまでであれば、漠然と心を覆うような理由のない寂しさなど鬱陶しいばかりで、無意識にも払いのけようとするのだが今日はそうではなかった。
細い枝の先に5つばかり実だけが残っている柿の木や、茫々と枯れたススキの風になびくようすや、家家の立ち並ぶ様子の妙なわびしさを、じっくりと味わったのである。 そうそう、こういう光景を目にする度にいつも同じような寂寥感に襲われてきたと。 これをどんな言葉で表現することができるのだろうかと。
ここ二週間ばかり繰り返し読んでいる古井由吉の「冬至過ぎ」という文章のお陰だと思う。冬至過ぎの夕暮れ時、独り馴染みのない駅で途方に暮れている初老の男。目の前に広がる景色は精彩を欠き、ただただ陰鬱の中に沈んでいる。じっとりとした不快感や足元がおぼつかないような不安、目の前にただ底なしの穴だけしかないような寂寥感が、情景の描写と、内面を描写する言葉によって、みごとに描き出されている。
その表現を何度でも読み、何度でも繰り返し味わっている。 味わってみれば、あれほど避けたいと思っていた淋しさが、それはそれで親しいもののように馴染み、慰めのように沁みてくるから不思議だ。
この季節に良い文章に出合ったと思う。
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