たりたの日記
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| 2004年11月28日(日) |
荷を負うろばの子、子ろばに乗って |
確か先週の日曜日に、教会暦の最後の主日と書いた。 という事は、今日は教会の暦のはじまりの日ということになる。
今日からアドベント(待降節)。 モミの木の枝で作られたアドベントクランツの4本のろうそくがひとつだけ灯された。
世の中はこれから年の瀬を迎えようとしているのに、この時を始まりとする教会暦とはいったい何なのか。
教会暦というのは、神の救いの歴史の一巡りで、今日、新しい救いの一巡りが始まったのだと牧師は語る。
今日のテキストはイエスのエルサレム入場の場面。いよいよ十字架の刑が迫ってきていたその時、イエスは子ろばに乗ってエルサレムへ入る。この時、人々は、イエスがエルサレムに入ってこられるのを歓喜し、ホサナ、ホサナと熱狂的に迎え入れたのだ。
イエスはその群衆の歓喜が数日の内にどのように変わるか、その果てには何か待っているのか、知っていた。そしてイエスはエルサレムの入場するための乗り物に、子ろばを所望する。威風堂々と馬にまたがるのではなく、小さな貧しいろばの子を選ぶ。ここに古の預言者の預言が実現した。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、、柔和な方で、ろばに乗り、、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
ここで言われる柔和とは、単に穏やかで争いを好まないという消極的な意味ではない。この言葉の本来の意味は<踏みにじられてもじっとがまんしていること>だと、説教者は語る。
実際イエスは人の痛みと病をその身に引き受け、つばをかけられ、ののしられ、鞭打たれ、釘と槍で貫かれる。 そういう「柔和」とは、なんと凄まじいことだろう。
アドベントという時期は、自分の人生観を確立する時だと、説教者はまた説く。 この世での人生と、死んだ後に与えられる永遠の命との間に齟齬がなく、ひとつの流れの中にある生き方を確立する時だと。
イエスを心に迎え入れる用意はできているか。 心にきちんとそのためのスペースが準備されているか。 クリスマスのデコレーションや、プレゼントの用意の前に、その準備こそがなされなければならないと思う。
礼拝の後、教会の姉妹二人とゆっくり昼食をとりながら話をする。その後、オルガンの練習をするつもりだったが、誰もいない礼拝堂に一人居る気にもなれなくて、大宮駅の輸入食料品の店で、甥っ子達への小包へ入れるクリスマスのお菓子類や、英語学校の子ども達へのプレゼントのキャンディー類を買った。 持ちきれない量になったので送ってもらう。 心の準備もだが、クリスマスの具体的な準備は避けては通れないもの。
夜はクリスマス会で歌うキャロルをギターを弾きながら練習。 What Child is This? グリーンスリーブスの旋律に、讃美歌の詩が付けられたもの。
クリスマスの歌なのに、しんと物悲しいこの歌は好きだ。 2番の歌詞にはイエスの十字架の場面が歌われている。
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マタイによる福音書 21章1−11
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、、柔和な方で、ろばに乗り、、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
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