たりたの日記
DiaryINDEXpastwill


2004年10月22日(金) 「空の鳥と野の花と」の名前の由来

振り返ってみれば、今月の10日よりこっち、家に一日いるという日が一日たりともなかったです。仕事がない日も、いろいろな行事やその準備などがあり、一日か半日は外に出ていました。ま、ジム行きなども入れてですけれどね。

1週間のうち、せめて一日でも家に居る日がないと、いろいろと困ったことになります。だんだん寒くなるのに、衣類の入れ替えができていなかったり、台風の後で庭がひどい状態になっているのに、手入れができないままほったらかされていたり、そうすると気持ちもなんだかわさわさと落ち着かないものです。

今日はひとつ約束があったのですが、我侭を言ってキャンセルし、一日家にいることにしました。たまりにたまったもろもろのことを片付けていきました。
別にのんびりしているわけではないのですが、こういう家のことをするとなにかのんびりとします。庭の植物の刈り込みをしたり雑草を抜いたりしながら、もっと花たちと過ごす時間を取らなくてはと思ったのです。
花に限らず、自然の中に身を置く時間をもっと作る必要があると。
空の鳥のように、野の花のように生きたいと思っていることを忘れてしまいます。

以下は今日「りとろぐ」に掲載した文です。
ところで、ゴザンスの記事もそうでしたが、このりとろぐ「空の鳥と野の花と」をそのままメールマガジンとして配信することができます。わたしが新しく記事を書きそれを送信すると同時に読者の方にその記事がメールで届けられるというものです。

メルマガをご希望の方は、メールにてお知らせ下さい。まだメルマガ登録申し込みのフォームができていないので、お知らせくだされば、わたしの方でリストに加えます。


<りとろぐに書いた記事>

   「空の鳥と野の花と」の名前の由来

さて、新しく「りとろぐ」のプロジェクトをスタートするにあたって、プロジェクトの名前と、スレッドの名前をどうするか迷いました。

プロジェクトの名前は出版社の名前、スレッドの名前は雑誌の名前と考えれば良いということでしたので、スレッドの名前はゴザンスの時から使っていた「空の鳥と野の花と」にしました。ところがプロジェクトの名前が思い浮かびません。とりあえず、同じ名前でスタートすることにしました。後で変更はできるということですしね。

ところで、この「空の鳥と野の花と」というタイトルの由来をどこにも書いていなかった事に気が付きました。聖書に馴染みのある方なら、あぁ、あそこから取ったんだなとすぐに見当がつくことでしょうが、そうでなければ、何となくメルヘンチックな少女趣味の響きがするのかもしれません。それはそれで構わないのですが、良い機会なので、ごあいさつがわりにこの名前の由来について書いておこうと思います。

出典は新約聖書、マタイによる福音書6章の25節から24節の記事です。
少し長くなりますが、この箇所をまず書き出してみます。


「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。_ だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
( 新共同訳聖書)


これはイエスが山の上から人々に語り聞かせた、山上の説教といわれる説教の中にあるもので、わたしにとっては子どもの時からの馴染みのある聖書の言葉です。
幼い心にこの言葉がとりわけ響いたのは、わたしが何につけ、くよくよ、あれこれと悩む子どもだったからなのでしょう。ほんとに子どものくせに悩んでばかりいたのです。ですから、このイエスの言葉を聞いた時、そこにしがみつきたい気持ちになったのだと思います。

その言葉のせいかどうかは分かりませんが、今のわたしは物事をそれほど深刻に悩むこともなく、かなり脳天気に日々を過ごしていますが、それでも日常の暮らしの中で、さまざまな思い煩いはついてまわります。今日の晩ご飯は何にしようかと悩みますし、明日は何を着ようかと考えないわけにはゆきません。けれども、せめて文章綴る時には、そういう日常から自由になって、自分の心の底へ降りていき、そこにある水を汲み上げるようにして書いていきたいと思うのです。

宮沢賢治が「注文の多い料理店」の序文で書いている、「すきとおったほんとうのたべもの」を自分の内に、また外に求めながら、空の鳥と野の花と心を通わせ、今日生かされていることを味わいつつ書いていきたい。そういう願いを込めた名前です。
どうぞよろしく!


*設定を忘れていたので、今日からメルマガが配信されるはずなのですが、うまく届きますでしょうか。


たりたくみ |MAILHomePage

My追加