たりたの日記
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2004年07月09日(金) 映画「真珠の耳飾りの少女 」を見て

絵画にしろ、音楽にしろ、ダンスや演劇、そして文学、いわゆる芸術と言われるものに、わたしは深く心を惹かれる。とりわけ、その芸術を生み出す人、またその芸術が生まれる場面に関心がある。
だからアーティストの生涯やエピソードを描いた映画であれば、まず見たい。


映画真珠の耳飾りの少女は17世紀のオランダの画家 ヨハネス・フェルメールを描いた映画というので、気になっていた。前に映画の予告編で見た映像が、まるでフェルメールの絵そのものといった感じだったので、ストーリーはともかく、その絵の世界に浸ってみたいものだと思っていた。


映画は、鋭いナイフが、さまざまな野菜を切り分けていく映像から始まるのだが、このシーンですでに充分期待できるものを感じた。
中世の暗い台所、フェルメールの絵の中に入りこんだような映像の中、大皿に美しく盛られた野菜が印象的だった。
映画を見終わってこの場面を振り返ってみると、このシーンは取りも直さず、少女のアーティストとしての仕事の場面だったことに気づかされる。それは台所の野菜を注意深く切り分け、皿の上に組み立てた少女の芸術作品。


画家は孤独だった。いえ、アーティストと呼ばれる人達はみな深い孤独を抱えている人達であるに違いない。芸術家は孤独である必然を持っていると思う。孤独でなければ神と対面できないからだ。そして作品を生み出すためには、その作品が命を持つためにはそこに神の息が吹きかけられる必要があると思うから。芸術と孤独と神とは切っても切り離すことのできない関係にあるとわたしは思っている。


孤独の場所で、そして神の息が吹きかけられる芸術が生まれる場所で、画家の魂と、使用人の少女の魂は出会う。直感でお互いの事を深く知り得る二人であるから、また男であり女であるから、そこにさまざまな感情や痛み、また事件も起こるのだが、映画はあくまでアーティストとして影響しあう二人の心を、少女の鋭い感性や、その少女に創造力をかきたたせられる画家の心の動きを追う。


二人の間に葛藤はあるものの、芸術を生み出すことの情熱や意志が、恋愛の感情を超えているところが興味深く、また好ましいと感じた。
学問もない少女の中にある、生まれ持ったアーティストとしての才能と誇りを画家が知っていた。画家の心には少女を育てたいという感情が芽生え、少女は画家の仕事を尊敬し、また自分の内にある力に目覚め始める。まさにプラトンが言うところのプラトニックラブをそこに見る。


映画が終わった時は、もっと先の展開をどこかで期待していたので何か肩透かしを喰らったような気持ちになったが、映画を見た後から、この映画に寄せる想いがずんずん広がっていくのを感じて驚いた。
わたしはこの二人の出会いの物語から、新たに別のことを考え始めていた。


先に画家は孤独だったと書いた。アーティストはみな孤独だとも。
しかし、どうだろう、芸術家に限らず、誰でもみな「誰からも分かってもらえない」「誰かに理解されたい」という孤独を抱いているのではないだろうか。
知ってもらうことを親に、教師に、友達に、世間に、あるいは恋人に、また配偶者に求める。けれども、自分のすべてを、とりわけ自分の魂の深みは誰にも分かってはもらえない。恋愛は相手が自分のことを分かっているという幻想の元に生じるものなのかもしれない。恋愛がそれを満たすものでないことは知りつつも幻想を抱く。


しかし、この「知られたいという心」がひとつは創造の力となり、また神を求める力となるのではないだろうかと、そんなことを考えた。
なぜ、人は神を求めるのか、それは自分をその魂の深みまで知っているのは、自分を創造した神以外にはないということを、魂はすでに知っているからだ。神こそは自分を知っている、神しか自分のことは知らないというところに行き着く。

そして人はなぜ創造しようとするのか。自分を知ろうとして創作へとかりたてられるのだろうが、それはそのまま、自分を創造した神の意図を問う行為でもある。真摯に自分と向かい合おうとするその場所で神の創造の息吹に出会う。そして自らの創造という行為の中で、人間を創造したアーティストとしての神の心を知ることになる。


神から知られ、神を知るということの中に起こる至福―


この映画を見終わってスピリチュアルなものに打たれたのは、人間そのものが尊い神の芸術作品であり、その人間が自ら美しいものを生み出そうとする時、必ずや神の息に触れるという理(ことわり)が、語られない言葉として、また見えない色としてスクリーンの向こう側からひそやかに告げられてきたからなのだろう。


たりたくみ |MAILHomePage

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