たりたの日記
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| 2003年12月27日(土) |
笑うはなし、こっちでも |
夫が最近エンピツで mGの日記 を始めたのだが、その最新の日記を読んで笑ってしまった。タイトルは「笑うはなし」。
20年以上もいっしょに暮らしていても知らないことというのはあるものである。 彼は鏡嫌い。そうか、そうだったのだ。
鏡を見ない人というのは自分の顔つきや表情が他人にどんな風に見えるのか知るよしもない。そもそも、他人のために表情を創るということをそもそもあきらめている。
けっして、無愛想な男が好みというわけじゃない。けれども結果としてあまり笑わない男と結婚し、20年このかたそのことをさほど不自由とも不満とも感じることなく過ごしてきた。その夫が最近笑う練習を始めたらしい。
わたしはこの点に関しては彼とはまるで正反対。子どもの頃から暇があれば鏡の前に立っているというような、まったくいやらしい少女だった。まず、朝起きると鏡の前、学校から戻ってくると鏡の前、もちろん、寝る前にも、と始終鏡に向かっていたような気がする。よく母から、「いつまで鏡見ているの!」と、小言を言われていた。
鏡の前でいったい何をしていたのかといえば、笑っていたのである。 笑う練習をしていたと言ってもいい。あるいは、どういうスマイルが人に好感を与えるかということをいろいろと研究していた。もっとひいき目に言えば、自分に会うために鏡に向かっていたのかもしれない。それにしても、かなり変な子どもだった。
果たして、その練習の成果はあったのだろうか。 年頃になって、何が褒められるといって、まずは笑顔だった。笑顔がいいと褒められても、 ちょっと複雑な気持ちなのだが、何も褒められないよりはいい。さんざん練習したからなのか、普通にしていれば、それがそのままスマイルになった。目が少し下がり、口元がわずかに上向きになるというのが自然にしている時のわたしの顔つきだから、なんだか、ぽわぽわしていて、鋭さに欠ける表情になってしまい、わたしの本質とどこかズレているような顔だと自分としては不本意だ。
気がつくとわたしは鏡の前で、笑わない練習をしている。わたしの心の状態を表している表情を探すのである。そして、シャープな印象の顔を見つけては、そう、これこれと決めるのだが、人の前に出るといつもの人あたりの良さげなスマイルが条件反射的に出てくる。
なぜ、こういう表情を自分にくっつけたのだろう。分析してみると、それはわたしが鍵っ子だったことと深いかかわりがあるように思う。母親のスカートに隠れるということができなかったわたしは、どんな時にも一人で大人達の前に立たなければならなかった。 大人からいくばくかの愛情と、哀れみと、賞賛を受けるためのすべのようなものを本能的に身に付けたのではないだろうか。一方、いつも母親の後ろに隠れることができた夫は、そういう必要など全く無かった。人から嫌われるということに恐怖心などないから、いつだって自分の心をいつわらない顔つきをしていられたのだろう。 しかし彼は今、笑う練習をしているという。
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