たりたの日記
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2003年01月03日(金) 元旦の朝

いつも元旦の朝の空気は何か特別な感じがしていた。その特別な感じが今年の元旦に感じられなかったのは前の晩、まだ起きているという夫に後片付けを頼んで元旦のテーブルを整えるのは翌朝すればいいとさっさと寝てしまったからだろうか。それとも私の気持ちが他のことに気を取られていて元旦の朝のことに集中していなかったせいだろうか。

気持ちが正月モードに切り替わっていなかったことを反省しながら重箱に紅白のかまぼこや漬け込んでおいた数の子、黒砂糖で煮たふっくらとつややかな黒豆、れんこんやごぼうやたけのこをとり肉といっしょに炒り煮した筑前煮などを詰めていく。コンロにかけた大鍋には昆布と鰹節で出しをとった雑煮用のつゆがぐらぐら煮えている。そこに白菜ととり肉とを入れてから、椎茸を水で戻していなかったことに気が付く。いつもなら前の晩から戻しておいたのに。わたしが少しあわて気味に支度をしているとそれを察した夫が誰が来るわけでもないんだからのんびりやるといいんだよと言う。確かに誰が来るわけでもない。どこへ行くわけでもない。しかも長男はカウントダウンのパーティーからまだ帰っても来ていない。3人だけの元旦なのだ。

昼近くになっておせち料理を並べた祝いのテーブルにつく。私の実家では鏡餅をめいめいが持ち上げたり、三々九度の杯でお屠蘇をいただいたりと年取りの儀式めいたものがあったが、私はそれをやらずにもっぱら夫の母がやっていたことを受け継いでいる。おせち料理や酒で新年を祝う前に聖書を読んで祈るというきまりごと。結婚して初めて夫の実家で元旦を迎えた時、それはちょっとしたカルチャーショックだった。夫の母は元旦の朝、愛用の聖書を取り出しておそらく事前に用意し、しおりをはさんでおたのだろう、さっとページを開くと聖書の言葉を朗読し、声に出して祈った。心にしんと染み渡ってくる言葉だった。いつもこまめに義父の世話を焼き、あまり表に出ない義母にこの時にはそのきまりごとを取り仕切る毅然としたリーダーシップを感じた。そして新しい年を聖書の言葉と祈りとによって始めるというこの家のしきたりに感動を覚え、これはぜひ見習わなければと密かに思ったのだった。

さて、しかし私はいつものことだが、用意が悪い。「あっ、待って、聖書を読むんだった」と箸を持った夫と次男にマッタをかけた。この上、どこを読もうかと迷うことは許されない。しかたなく「えいやっ」とばかりに聖書を開きそこを読んだ。元旦の朝いただいた言葉はイザヤ書60章だった。
ほんとにこんないい加減な私にも神様はこの1年に始まりの朝にふさわしい祝福の言葉をくださった。
ここに記しておくことにしよう。


イザヤ書60章<栄光と救いの到来>より

起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ闇は地を覆い
暗黒が包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたを照らす光に向かい
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
目を上げて、見渡すがよい。
みな集い、あなたのもとに来る。
息子たちは遠くから
娘たちは抱かれて、進んでくる

・・・・・・・・
太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
月の輝きがあなたを照らすこともない。
主があなたのとこしえの光となり
あなたに神があなたの輝きとなられる。
あなたの太陽はふたたび沈むことなく
あなたの月は欠けることがない。
主があなたの永遠の光となり
あなたの嘆きの日々は終わる
・・・・・・・




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