たりたの日記
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2002年12月15日(日) 3本のろうそくに火が灯る

 昨日は英語学校のクリスマスキャロルの集いがあり、日本語と英語でキャロルを歌い、クリスチャンの演劇グループによる英語劇を見、それぞれのキャロルの背景についてのショートメッセージを聞き、また2部ではお菓子とお茶をいただきながらいろんな方々と話した。

 甥っ子たちや親たちへのクリスマスの贈り物を送り、ツリーの下には英語にやってくる子ども達のプレゼントや子どもや夫へのプレゼントも置いた。親しい友人たちへの贈り物も用意し、クリスマスのイベントも ひとつづつ無事に終わっていく。クリスマスカードや年賀状まではとても気が回らないし、ご無沙汰している方へのお便りやクリスマスカードの返事など、やっていないことはまだまだあるものの、ともかく師走は前へと進んではいる。

 今日はアドベントクランツに3本目のろうそくが灯った。説教のテキストはヨハネによる福音書1章19〜28、先週に引き続いて洗礼者ヨハネの箇所だ。ヨハネは、自分はキリストを証しするものであってキリストではないと何度も強く否定する。そして言うのだ。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と。

 ヨハネは自分の後から来るというイエスを、あなたは今は知らないがすでにあなたの只中にイエスはいるのだと語っているのだとの説教を聞き、この聖書の意味がようやく解きほぐされると同時に深くまた豊かなイメージを伴って迫ってくるように感じた。まだイエスに出会っていない人たちに対して、すでにあなたの中にその方はおられると語るヨハネ。そういえば、イエスを知らないという人たちの向こうにイエスが透けて見えることがある。「あなたはイエスを知らないという。けれどもあなたの中にいるイエスが私には見える」そんな無言の言葉を私はその人の魂に向かって呼びかける。

 また説教の中でこんなことも語られた。ヨハネは自分をキリストを証しするものと位置づけているが、証しとは何か。それは自分を見せることではなく、むしろ自分を取り去ること。自分を透明にすることだと。透明な私を通してその背後にいるキリストが見えるということ。キリストが私の中にいますように、キリストが立ててくださったもののように生きるということだと。
この透明という感覚、よく分かる。自分を殺すことではない。自分が隠れることでもない。私は私としてそこにいるのだが、私が普遍なるものに開かれている。真理をブロックすることなく、そことパイプが通じている感覚。

透きとおっていきたい。


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ヨハネ1章19〜28
◆洗礼者ヨハネの証し
1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 1:20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 1:21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 1:22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。


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