たりたの日記
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2002年11月22日(金) 命のみなもとへの帰還

今朝、何の変哲もない日常がふいに変化した。
神がどれほどの思いを持ってひとりひとりの人間の魂を命のみなもとへと回帰させたがっているのかその思いの強さに一瞬の内に触れたような気がした。
そうしてわたしたち人間も魂の奥深いところで神への回帰を切望していることを思った。
その相互の思いがまじかに接触する時、神と人との間の通路が開く。
ひとつの奇跡のようにそれは唐突に起こる。

人は気がつかないうちにどれほど孤独と虚無の中に自分を閉じ込めていることだろう。苦悩を別の喜びや楽しさで埋める業を身に付け、飢えていることさえ気がつかないで日々を送る。でも、どこかでサインを送っているのだ。声を殺した叫びにも似たサインを。神はそのサインを見逃すことはしない。様々な出会いや出来事を通して、一歩、一歩、回復への道を、草に覆われ見えなくなってしまった道を整えていくのだ。そうしてある日、道が通る。愛や感謝や命に溢れる魂のふるさとへの帰還。その時人は決して独りで荒野をさまよう孤児ではなく、愛される者としてかけがえのない命をいただいた神の子どもであることを思い出す。

イエスは神から離れていった人間の魂を取り戻すために父である神から地上に使わされた。40日の間荒野をさまよいながら悪魔の誘惑を受け、愛した多くの人々から裏切られ、弟子達からも見捨てられ、十字架に付けられた時には「神よなぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶほどに徹底的に孤独の中に落とし込まれた。しかしこのことはイエスは神から離れた人間の孤独を心底共有したことを意味する。私達はそのイエスの苦悩の故にイエスを友と感じることができる。イエスの流す血によって溶かされてゆくことができる。神から愛されているのだとほんとうに知ることができる。


この日、この時を心に刻んでおこうと思う。



「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
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 神のなされることは皆その時にかなって美しい。」  伝道の書 3章


たりたくみ |MAILHomePage

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