たりたの日記
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2002年10月20日(日) 悔いくずおれた魂

今日の主日は私たちの教会に引退牧師として所属しておられるY先生の説教だった。テキストはマタイによる福音書21:33−44の「ぶどう園の農夫のたとえ話」だが、話の冒頭で氏が語られた言葉が印象的だった。

Y先生は有名な神学者でもあり、また長年牧師も勤めてきた方なのであるが、その方が「私はずっと心にかかっていることがあるのです。それは、この私がこの世での人生を終えた時、神様は自分を天国へ入る者としてわたしを選んでくださるかどうかということです。」と

キリスト教の世界では洗礼を受けてクリスチャンになることが天国へのパスポートのように考えたり、語られたりすることがよくある。私はずいぶん若い頃からこの考え方に馴染めないところがあった。神の選択は全く神のもので私たち人間が干渉できる余地はいっさいないと思っていたからだ。神の裁きの前にはクリスチャンであろうがなかろうが関係ない。神の裁きの前にすべての人間が一直線上に並んでいるのだ感じていた。実際神の基準がどのようなものか私たちが知るよしもない。ましてや自分は選ばれるなどと思うことなど、その根拠などどこにもないと。

そういう意味で、Y先生がこれまでの功績や励んでこられたことを神の前で取り立てていただけるようなものではないと受け止めていらっしゃること、今なお神のもとに近づくことができるよう真摯に励んでおられることを思い打たれるものがあった。「悔いくずおれた魂」を目の当たりにしたと感じた。




今日の教会学校の準備をするためにインターネットでこの箇所について調べたときもいくつかの説教の中で、悔いた魂、砕かれた魂のことが語られていて印象深かった。


>神は、有頂天になって大笑いしている魂を求めておられるのではなく、
>「我が人生に悔い無し」と自己満足している魂を求めておられるのでもなく、
>神はただ砕かれた悔いた魂を探し求めておられます。
>砕かれた魂を、神は収穫として天国に導き入れようとしておられます。
>イエスは
>「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
>とおっしゃったではありませんか。
                 
              テモテ牧師の説教より


>ファリサイ派の人々がイエスをキリストであると認め、礼拝することが出来>なかったのは、彼らが、この世をよくしようと思ったからです。
>彼らは、自分がよくなろうとしようとは思わなかったからです。
>自分の貧しさ、悲しさ、愚かさに打ちのめされることがなかったからです。
>神が収穫の時にぶどう園に送った僕とは、一体、何を集めようとしたのでし>ょう。
>そして、それをなぜ集めることが出来なかったのでしょう。
>それは、彼らが「悔い改めの実」を集めに遣わされたからです。
>神が求めるのは「悔いくずおれた魂」であると聖書は私たちに語っています。
                
              HP ぶどう酒の皮袋より


神が収穫として天国に招きいれようとしているのは功績者でも、徳を積んだ者でもなく、自分に悔い、くずおれた魂を持つ者。
そのことが何か大きな音響のように体中を駆け巡る気がした。

私の中にある傲慢、砕かれていない魂を思った。そしてふらふらと心惹かれるものを辿ってみるとそこに「悔いくずおれた魂」が横たわっていることに気づく。私は自分でも気が付かないままに、そうではない自分(傲慢な自分)をそうありたいもの(砕かれた魂を持つもの)へと近づけようとしてきたのではないだろうか。

イブが誘惑にかられて食べた禁断の果実を私もまた食べた罪ある者であるということ。それを覆い隠そうとするのではなく、罪のないもののように振舞うのではなく、罪を内に持つ自分のまま神の前にうなだれるということ。


たりたくみ |MAILHomePage

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