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2012年09月04日(火) かつきえ、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし--質的心理学会第9回大会にいってきたよ日記(2)

 
午後からは「つくること」としてのつながりというシンポに指定討論者として参加しました。
シンポの発表者などは以下のとおり。

「つくること」としてのつながり
企画・司会:岡部 大介(東京都市大学)・石田 喜美(常磐大学)
話題提供者: 岡部 大介(東京都市大学)・加藤 文俊(慶應義塾大学)・木村 健世(アーティスト)
話題提供者: 冠 那菜奈(メディエーター、ぐるっこのいえ)・石幡 愛(東京大学大学院教育学研究科)
話題提供者: 佐藤 慎也(日本大学)
指定討論者: 松嶋 秀明(滋賀県立大学)

企画者のお一人からは「世紀の無茶ぶり」といわれた指定討論。だって、およそアートとはかけ離れた人物だし、かなりバラエティーにとんだ発表をどうまとめたらいいのか。・・・と、当初は思ったのですが、実際のところとても面白かったし、私がやっていることにもかなり示唆がいただける企画であったと思います(と、シンポが終わってから気がついた)。

さて、この後のまとめは松嶋の主観の世界ですので「おいおい、違ってるよ」「んなこといってねーよ」というつっこみがあるかもしれません。悪しからずご寛恕くださいませ、と先に謝っておきます。

この企画の主旨としては、現代的なつながりの形式をとらえるために、アートを媒介とした事例を通して考えようというようなことだったと思う。すなわち、昔、共同体といえばそれは所与の存在であって、人がそこに参加するかしないかということは問われることがなかった。そういう融通のきかない共同体から現代的な状況は、即興的につながりあい、協働が成立するようなものになっている。人の集まり方にしても、自発的にはいっていくものになっている。誰でも自分なりにタグ付けして、個人的な立場でも共有するなにかしらを作りだして人々の集まりをつくりだすといったものになっているということがある。こういう状況にあって、あらわれているつながりの様相をみてみようという主旨だったと思います。

で、岡部先生からは「墨東大学」の事例、冠さんと石幡さんからは「余白ネットワーク」の取り組みについての発表、そして佐藤先生からは、先生がとりくんでおられる劇場外の演劇の取り組みのいくつか(避難マニュアル、三宅島アトレウスなど)について発表されました。それぞれの発表はバラエティーに飛んでいて、そのそれぞれが主役をはれるくらい面白かったのだけれど、とりあえず僕の関心からは以下のことが気になりました。

それは、この活動の鍵となるコンセプトのもつ力と、その賞味期限のようなものです。参加者を「学びへと動機づける言葉」とでもいったらいいのか、前回の日記のなかで協働に参与するメンバーにとって見えやすい目標とでもいったらいいのか、そういうもののよい実例が示されていると思った訳です。例えば、「墨東大学」では、学生の声として「やることはわかりやすい、結果が曖昧」というのがあったし、「余白ネットワーク」では「作業日」という日があるというように、個々の参加者にとってやることが比較的明確。このキーワードをみて「自分の求めていたのはこれだ」といったニーズを投影して入ってきやすい言葉になっているのかなと思います。

僕は授業でワークショップ的な活動をよくとりいれてますが、これもそうで、実際教師として体験させたいこと、そこからさらに考えを深めてもらうためのきっかけとなる活動に、学生をどのように導入するかというのが一番難しい。教師がねらっていることをいってもおそらく学生には理解できないし、説教がましくなってしまう。そうじゃなくて思わず楽しんで活動に参入してみれば、いろいろと考える材料にぶつかっていくといった展開が望ましいわけですが、それが難しい。

僕は自分が院生だった頃のナラティブという概念、質的研究という概念のことを思い出しました。いまや質的研究というと、かなり流通しているし、制度化されている。でも、僕らのころは違いました。なにそれ、なんかいいじゃんみたいな感じで、自分たちが既存の枠組みではできないことをやるときに質的研究とかいうと集まりやすいというそういうキーワードだったと思います。で、そういう自分の経験から敷衍して考えると、この活動の「賞味期限」はどれくらいなのだろう、と思ったのですね。あるいは、継続しつづけていくにはどんな努力がいるのだろうか、と。

余白、墨大といったキーワードにひきつけられてやってきた人たちが、そこで何か大切なことをやっているということは間違いないのだけれど、それが魅力をなくしていく時というのもあるだろうし、制度化される動きがでてきて、その活動の維持にしがみつくような展開になったりすることもあるのだろうか?そうなったら嫌だなという思いがあります。

ここらあたりは当日、川野先生が「それぞれは一粒の砂だったものがつみあがっていった時、ある時点でこれは山だよねというとらえ方が成立する。でも、それぞれは一粒の砂に返っていく」といったことをおっしゃって、結ぶことも大事なのだけど、ほどくことも大事なんじゃないかといったことをおっしゃったし、後に石幡さんもこの発言に触発されて「ほどく」ところが大事であるとおっしゃっているとさる筋から教えてもらいました。私のほうでは当日、冠さんだったと思いますが、余白ネットワークでも実は何もしない人もいる。そういうときに、なんとなく「枠外感エリートをよしとするコンテクスト」みたいなのが作られてきちゃって、自分たちもうっかりと何かやったらと薦めてしまったりすることがあるという話があったのを記憶してます。こういう力動(価値観や、尺度、選択肢がかたまってくる)がでてくることを考えるならば、それを継続するという事自体を批判的に考えた方がよいと石幡さんはお考えになっているようです(と、これも教えてもらいました)。

石幡さんのこのようなお考えには、なるほどと感銘をうけましたし、私自身が「質的研究」について考えていることの先を示唆されたような気もします(いま、質的研究者として結集した人々は、いまは、ほどかれて、それぞれの領域にもどってコツコツ記述しているのだと思います。コツコツとした記述にどれほどの意味があるのかが、今後問われていくことになるんでしょう)。

ただ、そのうえで僕が思っていることは、価値観や尺度、選択肢がかたまらないように継続することは可能なのか?という問いをもっていました。通常はそれは不可能だと思います。臨床現場では、クライエントのことをわかったと思った瞬間に、そのクライエントとの関係がうまくいかなくなるということがいわれることがあり、つねに理解の途上にとどまることが求められます。集合的に、理解の途上にとどまり続けるような活動を続けるためには、どこかで離散することが絶対必要なのかどうか、他の路はないのだろうかなどと考えてみたいと思います。


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