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2005年11月19日(土) 記憶にないとはどういうことか。

朝から東京へ。小平市の国立精神・神経センターでナラティブ研究会。センターにはじめていってみたが、すんごいキレイで広い建物ですんばらしいですわ。今回の発表は宮崎さんと川野先生の『自死遺族の語りに見られた「記憶にない」という語り』と、高木先生の『記憶空間試論』。

「記憶にない」という語りが特徴的にみられたことから、これを、いわゆるPTSD症状やトラウマ理論と比較して、それがどんな意味をもっているのかを探るというものだった。

今回のケースの場合「記憶がない」という発言は、単に発言権を委譲するためのものではないらしい。「ない」ことは「ある」を前提にしている。「ある」べきものを一生懸命に並べることで、自分自身、その当時は「どうかしていた」が、現在はちゃんとやれている人物として自らを位置どることに成功しているのではないだろうか。だから、宮崎さんが最後に書いていた「記憶にないままに置いておけない状況:語る機会/罪責感/現状の不全感」があるというのはうなづける。ウーフィットの「XそのときY」構文を思いだす話だった。

さて、一方、高木先生のご発表は『「記憶空間」試論』というものだった。恥ずかしながら、僕は話についていけていたかどうか怪しいが、、、(笑)。

高木先生は、ながいこと供述分析をされている方である。社会構成主義の裁判研究では、取調官と被疑者とのインタラクションにおける権力関係をあばきだすといったものになりやすく、これでは現在の裁判がうまくいっていないということはいえても、現場の人に訴えかける言葉にはなりにくい。現場に内在した問いを発しなければならないということになる。

現場でどうしても必要なことというのは「事実」ってなんなの?っということだ。でも、記憶というのは、原理的にいって誰も実際のところはわからない。語りは信用ならない。人は体験しないことでもペラペラしゃべれてしまうのだ。むしろ、いわゆる「真実」は語りが失敗するところに、語っても語りきれないところにあるのではないか、、、というやり方だ。語りではなく、語る身体の方を問題にしようと、その語るという行為を媒介するものとして物語りを考えようということだ。というわけで高木先生は、同じ話が反復されたときに微妙にあらわれる違いから、現事象にせまろうとしておられる。

僕もこのアプローチはとても面白いと思ったし、ナラティブセラピーでいう「ユニークな結果」なんていうものとも関連するかもなんて思っていた。だから、ある先生(匿名)がおっしゃっていたことで「語りは信用ならないけど、身体は信用できる、というのもわからないのではないか。身体だって嘘をつくことがあるかもしれない。例えば、ビールが嫌いだったときのあの苦い感じを、ビールを飲めるようになった後にはおもいだせないということがある」という発言は大変興味深かった。

記憶ってそもそも「ない」もので、それもまたおもしろいところですな。


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