I create you to control me
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| 2005年10月28日(金) |
相互行為のなかの「忘れ」 |
「ここから研」は細馬さんのUCLA滞在記。グッディンのマメさについて説明するうちに、彼の「忘れた」ということがいかに相互行為を組織化するリソースになるのかという話をきく。ある人が「忘れ」を表示することで、他者の注意がその「忘れ」を表示した人に集まって、彼は十全たる語り手になることができるといったような話。
でも、この話は、これだけでは終われないのではないか?。だって、このままでは語り手は「忘れた人」であり、そのまま想起できた人に発言権を奪われてしまいかねないからだ。
去年のY君の卒論でみたビデオをおもいだす。そこでは二人の人がいて、一方が主に語り手であるときのこと。
A1「ほんでな、えー、あれなんやったっけ?」 B1「ん?」 A2「ほら、リポビタンDとかの」 B2「ケイン?」 A3「そう、ケイン。そいつがなー。」
というようなフラグメントだったと思う。重要なのは、A1でAは「忘れ」を表示している。これをうけてB1は一気に身をのりだす。そしてA3の「そう、ケイン・・・」が聞こえるやいなや、再びもとのくつろいだ姿勢にもどるという身体動作が伴われているということだ。これは、「忘れ」を表示することが<いまーここ>での発言権を、Bにゆずりわたすものになっていることがわかる。
先に述べたように、これは物語を語る際にはおかしいことになる。なぜなら、Bに発言権を奪われたら、Aはもはや話の続きをしゃべれないかもしれないからだ。ところがBはA3で「そう、ケイン」という発話に接すると、さっさともとのポジションにもどってしまった。
つまり、これは最初のA1での「忘れ」の表示は、その「忘れ」の内容についての修復連鎖のはじまりを意味する。一連の会話は「物語を語る」という文脈のなかのサイドシーケンスとして受け止められうる。すなわち、記憶内容が語られ終わったことをきっかけにして、その「忘れ」を表示した人が、ふたたび正当な話者に返り咲けるということだ。
記憶が「ない」、「忘れた」と表現している人々のことをどう考えればいいか。大事なことは、たぶんその人たちは、記憶内容についての権利を放棄しているが、語りについての権利は放棄していないということではないだろうか。
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hideaki
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