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2005年05月31日(火) 『考えあう技術:教育と社会を哲学する』  

を新幹線の往復で読んだ。教育社会学者の苅谷剛彦さんと、哲学者の西研さんの対談が中心になっているが、最初に西さん、最後に苅谷さんがまとめの文章を書いている。

 最後の苅谷さんによる『「学ぶ意味」をどう再生するか』が印象に残った。昨今、「学びからの逃走」が起きたといわれ、その原因は学校において学ぶ意味が見えにくくなっていることだと語られる。学校は学びたいという意欲をひきだせていないともいわれる。こういう問いのたて方自体を考えなおす必要はないのだろうかと著者は考える。つまり、上記のような現状批判をする論者たちが「学びの意味」といった時、それはいったいどのようなものとしてイメージされているのだろうか、ということである。

 著者によれば「学びの意味」を唱えるとき、わたしたちは「(子どもが)自分のために学ぶ」ことを暗黙の前提としている。学びは、本来、個人の知識獲得だけでおわるものではない。他者の存在を前提としている。にもかかわらず、昨今の学習観は学習を、個人の知識の獲得や、変化としてのみとらえてしまっている。昨今の「個性の重視」もまたその傾向に拍車をかけているという。

 さて、上記の個人にとじられた学習観にかわって提案されているのは「誰かのために学ぶ」ことである。Lave & Wengerの正統的周辺参加論をベースにしながら、個人の学びであっても、実は目の前にいない(まだ、会ったことのない)誰かとつながっているという意味で、<社会(文化)ゲーム>への参加としてとらえるという視点が提唱されている。

 でもまあ結局のところ、社会のなかで人と協働してなにかを達成したときに、それを協働したみんなの達成であると正当に評価できるようなシステムをつくらなければ、学びの個人化だけを批判していてもしょうがないと思う。


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