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2005年05月10日(火) 見ることと見ようとすること

会議ののち、大学院生2人の合同の研究指導会。藤本さんは今週の土曜日にはアフリカはマハレにある国立公園にむけて旅だっていかれる。これから1年間、野生のチンパンジーを観察にいくのだという。彼女が注目しているのは野生チンパンジーの「見る」ことらしい。

エスノメソドロジカルに考えれば「見る」ことと「見ようとする」ことは分けて考えなければならない。「見る」ことと「見ようとする」ことは重なりつつも、別々のことだ。後者は具体的な行為として数えられるが、前者は実体のない構成概念だ。

ウィトゲンシュタインによれば、「見る」は単にヴィジュアルオリエンテーションを向けるということではなく、理解を含意している。だから、日常言語の言い回しにふりまわされて、実際にそのようなプロセスがあると誤解してはいけない。すなわち「見ている」という言葉があるからといって、そのような経過が実際にあるわけではないというわけだ。

例えば、T大学のI先生らがやっている、大学病院での症例検討会の相互行為分析では、研修医がシャーカステン(レントゲンをつって映すやつ)を見ながら患者の病歴を話すのだが、指導医はそれに一瞥もくれないということがとりあげられている。これは「視線を向けないこと」で逆説的に「見る」ことが達成されている例である。すなわち、普通ならばみるはずのレントゲン写真をみないことによって「異常なし」という理解を、その場全体に表示するものとなっていると考えられる。

一方で、「見ようとする」行為には、ただ視覚的になにかをとらえるだけではなく、それ自体、「見る」ことよりは、他者になんらかのメッセージを伝えることにもなる。例えば、うつむいている友人の顔をのぞきこんで「おーい」と言う時には、話者は友人の顔をのぞきこんでいながらも、実際には「見る」というよりも、友人のふるまいが、<いまーここ>において不適切であることを表示するということをしているのだ。




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