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2005年03月01日(火) 読書会にそなえて

Ole Dreierの論文を読む。この人は自身が家族療法家でありつつ、Lave & Wengerの社会実践論にも興味をもっている。

彼は、普通、セラピストはセッションで自分たちがおこなった介入によってクライエントが変わったといっているが、本当にそうなのかと問いをたてている。

クライエントはセラピーの文脈だけに生きているのではなく、複数の文脈のなかに生きている。そもそも文脈とは、「それ」としてとりだせるようなものではなく、ひとつの文脈は前後の文脈とひとつづきになってはじめてその意味が成立するようなものだ。

そしてクライエントが変化するということは、セラピー場面でおこった何かが他の場面に転移するということではなくて、セラピー場面を含めた、複数の文脈の関係のさせ方が変わったのだとDreier。

もちろんDreierのように言うこともできるだろうが、ナラティブが流行ってからというもの、もはやセラピストは変化をおこすものではなくなった。別にセラピストが何もしていないということではない。そうではなくて、その変化の著作権はだれにあるのか、「誰がその変化を記述できるのか?」という問題である。セラピー場面には、セラピストの物語とクライエントの物語があるだけであり、そのどちらがセラピーを十全に語れるということもない。

とすれば、Dreierが記述しているような、クライエントがおこなっているコンテクスト間の関係のさせ方というのは、そもそも誰からの見えなのであろうか?。クライエント?セラピスト?そのどちらでもない?。なんでそんなことをいうかと言えば、その記述の妥当性をどのようにして確かめたらよいのか、何が不可視になっているのかということに自覚的にならねばならない、という問題があるからである。


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