I create you to control me
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| 2005年01月20日(木) |
自分の人生の課題を論文にするのは悪いか? |
昼から大津へ。用事をすませていそいでとってかえし、3時半に学校着。 臨床心理学の授業。研究室にはいるとゼミ生が集合している。今日は、ついに1人が卒論を提出した。一時はどうなるかと思ったがなんとか間に合ったのはよかった。
大学教師になってからはもちろん、それ以前にもそれなりに人の卒論の相談にのっていたりすると、たまにその作者自身の人生にとってもテーマになっているもの(と、少なくとも僕は思うもの)を選ぶ人がいる。とかく臨床心理学をやっていると、なんでもその人の心理的課題と結びつけて考えるという非常に趣味の悪い言説にまきこまれることになる。「対人援助についてやりたい人は、おそらく自分自身が助けられたいのだ」とかそういうやつである。そして、そういう人は、自分は自分自身の問題からは解き放たれて、距離をとれてますよといわんばかりに、理論的な言説を借りて知性化されたテーマを選ぶのである。
でも、僕はこういう言い方をする人は信用できない。自分の問題にとりくんで何が悪いのだ。そもそも自分の生き方とかかわりがないようなテーマを選ぶ人って(少なくともこの業界では)、厳密にいったらいないのではないかと思うし、そのテーマを追求することによって自分が救われたい一心でおもわぬ大論文を書く人だっているだろう。ミッシェル・フーコーは自分が同性愛者であるが、それがどうも社会では受け入れられないという事態に非常に憤り、なんとかそれを変えたいと考えて今日に残るような著作群をのこしたという。
もちろん、自分がなんとか救われたいと思って書く論文はとてもエネルギーがいるから、できれば違うのにしてほしいと思うことは正直ある。そういう論文は、あたかも対象について語っているようでありながら、実は自分自身について語っているのであり、だからどんなにその論文の論旨がおかしいと指摘しても、相手はそれを受け入れてくれないし、かえって傷つけてしまうことになる。それはアドバイスする側も、研究する側も苦しい作業になる。最終的に論文が書けて自分自身について洞察が深まればよいが、結局、苦しくなって論文の完成どころでなくなったりする場合もある。
しかし、それに取り組もうとおもって頑張っている人を冷笑して、もっと距離のとれた問題をやればいいのにという言い方は僕はしたくない。余計なお世話だ。もちろん、サポートする側にも根性がいるだろうが、自分の問題にとりくんで、それで最終的に自分でも納得できるものが書けたということは、もう内容うんぬんはどうでもよくて、とにかくそのこと自体で、彼(女)はとても大事なことを4年間でやってのけたと思う。それを一緒に喜びたいわけである。
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