I create you to control me
DiaryINDEXpastwill


2004年10月03日(日) ボトムアップ2日目

朝から、ボトムアップ研究会の2日目。細馬さんの発表。

塾での生徒の会話のなかで、いかに○○中学の生徒とか、○○中学の○○組の生徒といったカテゴリー、あるいは○○中学の生徒でありつつ、塾の塾生でもあるというカテゴリーの切り替えをやっているのかという話。

切れ味鋭い分析で大変おもしろかった。

フロアで議論になったのは、会話分析がいったいどのような役にたつのだろうかということである。

これは心理学者とか、教育学者とか、なにか実際の現場のことをどうにかしたいという欲望を持っている人のもつ疑問だ。純粋な会話分析は、会話の形式にのみ興味がある。会話が、それとして成立するのはいったいどのようにしてかということを解明することが唯一の目的で、そこで話されている内容がどのようなものでも構わない。

しかし、心理学をやっている人はたいていそれでは納得しない。例えば、僕は非行少年がいかに更生するのかを明らかにしたいと思って、施設での会話の会話分析をこころみた。ここでは、とりあげられる会話はどんなものでもいいわけではなく、会話の内容にも興味があるわけである。

ここに無理が生じる。われわれは正統な会話分析から逸脱して、会話内容にも興味をいだいてしまったので、単なる形式の記述におわる会話分析に満足できなくなってしまうのだ。つまり、それは下手な色気をだした我々の責任であって、会話分析の責任ではないということだ。どのように位置づくかということは、心理学の文脈で使う人たちが個別に考えなければならないことだと思う。

僕が思っているのは、実践の反省的な見直しに使えるということだ。非行少年を、問題児とよぶことによって、何がみえて何がみえなくなっているのか、彼らのひきおこす問題を彼らの能力のせいにすることによって、いったい非行問題をどのようなものとして見せることになっているのかということを反省するために、会話分析的な分析は使える。

ただし、そういうことを言いはじめると、研究者自身のスタンスとかポジショニングという問題を避けてとおれない。というのも、これまでと違って研究者が会話分析で見いだすのは、現場の人がすでに知っていることばかりだからである。

冒頭の塾や学校の会話よろしく、我々は自分しかしらないことに関しては、優先的に語る権利をもつし、皆からも無条件に承認されることを期待している。「朝、コーヒー飲んできてん」と友だちにいったら、もし本当は嘘をついていたとしても、それが嘘だなどとつっこむ友人がいるとはさしあたって考えにくい。

けれども、友だちもみんなが知っているアーティストのCDを聞いて、この曲はああだこうだという時、自分の解釈は無条件に受け入れられるとは限らず、どれだけそのCDが素晴らしいかを演説しても「ええ、そうかなあ」とか「僕はそうは思わない」などというようなつっこみを受けても不思議ではない。

そういう時、僕が彼らにそのCDの素晴らしさについて承認してもらおうと思ったら、とりあえず周囲の人がそのCDをどのように聞き、どのような感想をもっているのかを知ることが大事だろう。そして、「ああ、それもわかるなあ」なんて思いながら、でも自分の感じ方とどこがどう違うのかと考えなければならないと思う。

その過程でおそらく自分はCDについて以前よりもはるかにたくさんのことを知るようになるだろうし、周囲の友だちの感じ方についてもはるかによく知ることになるだろうと思う。

会話分析の結果が、実践家の反省のツールになるとしたら、おそらく研究者がこのCDを語る人と同じような境地にいたった時ではないかという気がする。


INDEXpastwill
hideaki

My追加