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2004年09月29日(水) アイデンティティは変化するのかしないのか

昨日も書いたが、バンバーグ先生の講義では、スモール・ストーリー研究というのが提唱されていた。

スモール・ストーリーの特徴は、非常に短期間のあいだに生起する会話にうめこまれており、会話のなかでたくみにポジショニングをかえながら、目の前の聞き手、あるいはドミナントなディスコースとのあいだで交渉され続けるというようなものであるらしい。

このように問うことで、アイデンティティを実体としてではなく、日常の実践のなかでつねにおこなわれており、人の経験というのはつねに編集され続けているということとして理解することができるというようなことが、
講義でははなされていたように思う。

おそらくはアイデンティティというのが、社会的に一方的に決まってしまうものでも、なにか自己のなかに中核としてある感覚というのでもなく、語りの領域において公共化される(ゆえに観察によって研究することが可能)ということも、スモールストーリー研究の意義としてあげることができるだろう。

しかし、こういう特定の場に埋め込まれたものとしてアイデンティティをとらえようとするやり方は、臨床心理学などで扱われるアイデンティティと大変ことなっているので、「その場では、そのように聞き手によってあれこれ変わるものであることはわかるが、しかし、長期的にみれば一貫したアイデンティティの感覚というのもあるのではないか」というような批判もうまれてしまう。

たぶん、スモールストーリー研究においても、臨床心理学的なアイデンティティの見方はあってもOKということだろうと僕は思う。ただし、それは理論的にそうだということではなくて、その会話に参加しているメンバーの視点として、それもありだということだ。

語り手自身、ときとしてこのような臨床心理学的な視点にたって自らのアイデンティティを感得しはじめる。ほかにもたくさんのレパートリーがあるなかで、自らを病理化する言説が唯一のものと感じてしまうような会話がそこではなされるということになる。このようなわけで、ナラティブセラピーにおいては研究者や、臨床家自身が、自らの権力性、政治性に対する反省的実践を行うことが要請されるのだと思う。

重要なことは、理論的な話と、経験的な話をわけて考えるということだと思う。そして例えばセラピストであれば、理論的にはいろいろなその他の可能性があることを考慮しつつ、自らのあり方を反省し、しかし、実践家としてひとたびやり直しのきかないケースとのやりとりの世界にはいったなら、腹をきめて一つのポジションをとることをためらってはならないということだろう。


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hideaki

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