I create you to control me
DiaryINDEXpastwill


2004年09月23日(木) パラリンピック

ある人がMLで、パラリンピックには抵抗があるといっておられた。その根拠のひとつは、「ほとんど工学的・経済的競争に化していないか。・・・補助器具や訓練機材が高度化すると、貧しい国からなど出場できない」というものだという。

なるほどそのとおりだと思う一方で、それは何もパラリンピックでなくてもそうなのだと思う。ジェームスワーチがわれわれの生活がそもそも道具に媒介されているということを説明する際によく用いるのは、「棒高跳び」である。

棒高跳びの記録が伸びることは、なにも身体的能力が向上したことにとどまらない。スパイク、トラックの鋪装技術、そして棒高跳びの棒の材質の変化といった、様々な道具の進化によって記録は向上し続けている。

補助機具や訓練機材が高度化したことで、貧しい国からでられないというのは、オリンピックでも同じことだ。もちろん、パラリンピックよりは出やすいかもしれないが、どの国からでも参加できるわけではない。例えば陸上競技など、標準記録を上回らなければ出場できないのだから、実質的にはむりなのである。

このように我々が日々おこなっていることで道具に媒介されていないものなどない。ないのだけど、それが目立つものと目立たないものがあるというだけだと思う。

眼鏡をかけている人は、いまやありふれているから、眼鏡をかけているからといって特別な目でみられたりしない。しかし、あのもはや何かSF映画のマシーンのような車椅子にのり、僕らが走るのなんかとは比べ物にならないような、とんでもないタイムで優勝する人たちをみると、素朴に「それも、やっぱり、走ってるっていうのかしら」と思ってしまう。

でも、そういう素朴な思いは、おそらく我々の身体というのが皮膚界面上で区切られているというような信念と、何も使わないでクリアーできることが「ひとりでできる課題」なのだという信念によって支えられている。そして、それは単なるおもいこみにすぎないと思う。

そういう意味で、パラリンピックは我々の個体能力主義的な能力観に変更を迫るだろうし、我々の身体の境界といったものについても再考をせまっているようにおもえる。

















INDEXpastwill
hideaki

My追加