DJ SEO's DIARY

2002年11月17日(日) >>僕の音楽人生(4)

高校2年。

運命的な男との出会いは思っていたよりも、すぐに起こった。
正確な記憶はないが、4月末の修学旅行でずっとつるんでいたのは
鮮明に覚えていたので、出会いはかなり早かったんだろう。


オアシスのノエルのような、ふてぶてしい顔つきにボーズ頭のその男は、
あきらかに無気力魂に満ち溢れた、音楽とグチ吐きが大好きなヤツだった。
名はY君といった。


彼が僕にもたらした良い音楽は挙げたらキリがないが、
それ以上に大きなものを与えられた。


「パンク」である。今でこそオルタナは一つのジャンルであるが、
オルタナ=USパンクの図式は常に存在するのだ。
しかも、ロック=パンクでもある。ロックするエンジンがパンクなのである。


最高にオモシロイのが、彼はナゼか無意識レヴェルで精神論的なパンクを
所持していたことだ。
そして更にウマが合った理由として、
彼はザ・ブルーハ―ツに影響されたような”元気”なパンクじゃなかった。

USオルタナ特有の”気だるさ”を自然に持ち合わせた、
今考えても面白すぎる音楽好きだった。
とにかく集団行動とスポーツがキライなヤツだった。
外で遊ぶより、教室でTADやL7のジャケなんかに出てくる”醜い顔”を見て
ゲラゲラ笑っている方が好きヤツだった。


イイヤツだが、恐ろしくやる気がないやつなので僕も同時に
クラスのアウト・サイダーになりつつあった。
合唱コンクールや運動会には、参加しない悪いヤツだった。


このままでは、オンナのコに嫌われる!と思い、
他の友達ともたまにつるむようになった。
めっちゃオシャレな奴らとも少々つるんだ。
僕は恥ずかしいくらいダサダサだったが、一応「ちょっと洋楽詳しいヤツ」
というキャラだったので
何とか仲間に入れてもらえてたらしい。


彼らは、その頃から一部の間では話題だった(今で言うところの)
”裏原宿系”好きのグループだった。
カリスマ”藤原ヒロシ”氏を中心としたこのムーブメントは、
大貫憲章氏、ヒカル氏らもからんでいるのもあり、
音楽とも密接にリンクしていた。

彼らとの出会いは修学旅行の時だった。
Y君に聞かせてもらって衝撃を受けたメロディック・ハードコア・シーンの雄、
オフスプリングの「SMASH」
ランシドの「LET'S GO」を即行買って学校に持ってきていた時だった。

当時、まだ日本盤化して間もないころのオフスプの帯には、
「全米300万枚突破!」と書かれていたのは
今思うと「時代やな〜」だが、このことはどーでもいい。
ランシドの帯に書かれていた「ライナー:ヒカル」というのが、
彼らの目に止まったらしい。
当時のヒカルは今ほど有名ではなかったが、裏原マニアの彼らには
「東京セックス・ピストルズ」のドラマーという時点で
既に有名なんだろう(←なんで、僕はこんなことまで知ってるんでしょう?笑)

このライナーは僕が言えたもんじゃあないかも知れないが、
正にコドモな文章なんでヒマがあれば必読でしょう。
高校時代はかなり爆笑していた記憶が・・・・(笑)

アンダーカバーが、ニルヴァ―ナを大リスペクトしていたのもあって
信者の彼には修学旅行中、
「ネヴァーマインド」をずっと貸してあげていた。彼らはずっと
「ハロー、ハウロウ?」と言っていた。


彼らとはだいぶ仲良くなったが、彼らはあまりにもオシャレに金を使いすぎる
奴らだったので、途中から着いていけなくなった。

・・・でも、半年後には僕もそっち系の服に数万円もつぎ込むことになったので、似たようなものだが(笑)


Y君はケチりながらも、結構いいものは身につけていた。
”単なるクラスのはみ出し者”のレッテルを何とか逃れたのは、
そのおかげなのかも知れない。

僕らはクラスの連中(特に女子)とは、少し疎遠なスタンスだったが
僕らが”洋楽に詳しい”ことは、結構知られていたらしく、
たまにテープを作ってあげたりして
何とかクラス内のポジションを保っていた。


あいつのテープは今考えてもヤバかったな。
・・・かなり勉強になった。


とゆーか、僕自身の”根っこの音楽”ってのは、すべて高校生時代に
Y君と掘ったり、聞かせてもらったり・・・
、後は僕自身で見つけたり・・・して体内に入れた音楽なのだ。


今、思い出す範囲で挙げてもY君が僕にもたらした音楽は計り知れない。

STONE TEMPLE PILOTS、BLIND MELON、SUGAR、
INSPIRAL CARPETS、REM、GUMBALL、RANCID、
RAGE AGAINST THE MACHINE、BECK、
RED HOT CHILI PEPPERS、SUBLIME・・・

・・・おそらくまだまだあるだろうが、自分の中の決定的なバンド、
ストテンが彼ゆずりだというのが、自分でもとても興味深い。


秋になると、また(自分の中の)シーンはUKに移りつつあった。
そう、オアシスの2NDとブラーの4THが出るからである。

この2バンドの争いもいよいよクライマックスっぽい9月。
まずはシングル戦で「カントリー・ハウス」と「ロール・ウィズ・イット」が
アルバム戦では、「グレイト・エスケープ」と「モーニング・グローリー」
が激突。

結果は、どうにも納得のいかないブラー1位、オアシス2位という結果に。
当然リアムは怒り狂って、デーモンに対して暴言吐きまくり!

そんなんがとても面白かった時期だった。
ゴシップ記事でゲラゲラ笑っていた。


その年の秋からバンドもやり始めた。
もちろん、コピーバンドだが。
好きなニルヴァ―ナ、グリーン・ディ、プレジデンツ・オブ・USA、
Y君のリクエストで、REMなどをコピーして遊んでいた。


個人的に衝撃を受けたのは、スマパンの「メロンコリー〜」だった。
なんか当時はほとんど理解できてなかったけど、何か悲しかった。
オルタナは終わって、これからはUKロック(ブリット・ポップ)
なんだぁ〜・・・と、思った。

ストーン・ローゼスは、隣の学校に行ってる同じ中学の人が
「いいで。」といっていたので、
買ってみたんだけど、「テン・ストーリー・ラヴ・ソング」以外、
ピンとこないという異常事態に・・・(笑)

1STを聴く前に2NDから入ってしまった、大変かわいそうなリスナーであった。


翌年の2月ぐらいに、中古屋で当時発売からそんなに経っていなかった(はず)
レイジの2NDを購入する。「ピープル・オブ・ザ・サン」のギターリフに
しびれまくって即行コピーしたんだが、
VO(僕っす)がラップ歌えないっちゅー理由であえなく却下。

後にこの曲は、そのギター・リフをループさせたインスト・ナンバー
(僕はベース)に変貌するが、
かなりオヤジ臭いプログレッシブな作品になってしまっていた・・・(笑)
これは、来年の学園祭(正確には僕自身の最初で最後のLIVE)で披露された。


そう、あとこの年の2月といえば、ランシドの初来日であった。
もちろんY君との参戦である。
なんと僕の初ライブは、大変遅かったが彼らであった。

ただでさえ初ライブで、こっちはビビッてるってのに来る人来る人、
名古屋屈指のパンクス(スキンズ)である。恐い恐い。

ライブ中も「シロートにいきなりこんなん体験させてええんか?」
っちゅーぐらいのモッシュとダイヴの連発で、
後ろでは普通にケンカが・・・(汗)。

しかもパンクスみんなデカイ!チビの僕はかなり苦戦・・・。
しかもライダースの針がささるささる・・!危ねーよ!!


それにしても、すごい衝撃のライヴだった。
あの時の「ルーツ・ラディカルズ」の渋さは、サマソニとは比べものにならない。


まあ、でもあまりにもガキだったおかげでシバかれずにすんだみたいだった。
ライヴ終了後にパンクスのモヒカンがみんなしなびてて、
それがかなり面白くて大変だった。


ここまでが高校2年。
高校3年生は、かなり勉強してた。CDも買ったし服も買った・・・・。

僕の中のバランスが、ちょうどこの3つに均等に配分された1年であった。





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