| 2002年07月23日(火) |
>>僕の音楽人生(2) |
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結局、ニルヴァ―ナのライブの感想は聞けずに時間は過ぎた。 その後もニルヴァ―ナのライブを同世代で体感した者には 全く出会えなかった。
ちなみに出会えたのは、今からたった1年半前である。 30歳くらいのアメリカ村の美容院のオーナーだった。
当時(中2)に話を戻そう。
そんなこともあった僕だが、そん時の僕にとってはそんな大事(おおごと) ではなかった。「また見れるから」である。 今で言うなら「ASH」を見逃したくらいなもんだ。 「また見れるさ」ってカンジで。 実際、その美容院の人も同じ事を言っていた。 「あの時のあいつらは、ただの狂ったギターバンドだ」と。
僕の母も「危ないから高校生になってから、見なさい」と言った。 そりゃあ、そうだなと思った。
中2の時は「ビートルズ」の赤盤、青盤を買ってよく聴いた。 でも大きなミスだったのが、その2枚で満足してしまっていたおかげで、 オリジナル盤を聴くのが、恥ずかしいほど遅れてしまったことだ。
他には「マライア・キャリー」を聴きまくった。 ドリカムの5THで一段落ついた時に、友人に「ドリカム好きならこれは?」 って薦められたのがきっかけ。1ST 2ND 4TH(中3)はよく聴いた。
中3の時の最大の出会いは、「ザ・スマッシング・パンプキンズ」だった。 地元のCD屋の「ニルヴァ―ナ・パールジャムに続くのはこいつらだ!」 のPOPを鵜呑みにして、ジャケもかわいかったので即買い。かなりよく聴いた。 「パール・ジャム」は以前から名前は気になっているが、まだこの時点では 買わずに終わる。僕の彼らとの出会いは「ヴァイタロジー(94’)」からだ。
93年冬、気づくとニルヴァ―ナの新作が出ていた。 理科準備室に入るのもためらっていた僕が、あのジャケを手にとって勇敢に レジに向かう様は、僕のロック魂の火種がついた瞬間か(?)
3RDは重かった。好きになるまでに1年くらいかかった気がする。 「ハート・シェイプド・ボックス」「フランシス・〜」 「ペニーロイヤル・ティー」「オール・アポロジーズ」は好きだったが、 他はかなり馴染めなかった記憶がある。 とにかく当時は「ミルク・イット」がイヤだった。
でも2番のサビぐらいで、カートが半笑いみたいな声で叫んでいるのが おかしくておかしくて、ヘッドホンしながらゲラゲラ笑ってて、 母にも「おもろくない?」って聴かせて・・・ってしている内に、 いつのまにか好きになっていた。
あの時期の僕に残った大きな”悔い”は、「イン・ユーテロ」の歌詞を 熟読しなかったことだった。せっかく日本盤を買っていたのに・・・。 当時の僕には「こういうテイストの歌詞を書く人」ぐらいにしか見ていなかった。
当時の僕にとっての「ロック」とは、あくまで「歌謡曲」の域を抜け出ていない ものであった。 音楽に自分の「すべて」をぶっこむ・・・というカートの姿勢を 僕は真正面からは受け止めていなかった。
現に当時の僕はめちゃめちゃ勉強してるただの普通の受験生だった。
そして、けっこう賢い高校に普通に受かった。
新たな人生を切り開く第一歩だ。 誰も知らない人ばかりでとても不安だが、がんばろう! ・・・という意気込みだった。
が、たまたまつけた衛星放送のニュース・キャスターが信じられないことを 言っていた・・・。
「人気オルタナティヴ・ロック・バンド、ニルヴァ―ナのフロント・マンである カート・コバインさん27歳が、4月8日以前に既に死亡していたことが明らかに なりました。自殺の可能性が高いとのことです。」
「し、死んだ!マジで?自殺?ウソ?なんで!?」
―――――――― 熱い高校生活が始まった ――――――――
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