非日記
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2015年01月29日(木) あけてまして。

おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

昨年も今年も、この非日記の意義と意味と行く末について悩ましく思い煩ってきたわけなんですけれど、人にやめろと激しく言われない限りはやめないと思うな。第一、やめる事はいつだってできるんですよ。というか、ここ数年で、やめていなかった時なんて、いったいあっただろうかというぐらいですからね。
この宇宙のどこかに自分以外でこれを読む奴がいると思い込んでキーを打っていて、だからこそのこの文章(言い回し)なわけですが、もし未来永劫に一人もいなかったらそれはそれで凄く神秘的な気がする。しかし、完全に「誰かがいる」という前提があるわけでもない。この二十年で、私はちょっとずつ成長したんですよ。ハナから誰もいないのに、そこにさも誰かがいるように話す事が稀になったというか、その事に違和感を感じるようになった!それは私がこの二十年で、どれほど沢山の人間たちと直接対面して言葉を交わしてきたかという努力の結果であると思います。


さて、この一月という季節に、この私が、謝罪から始めずに日記を書くという事の意味が、私にはよくおわかりのことと思います。ええ、もちろんです。
そう、私はもう年賀状を書いた……!
しかも出した……!
むしろ「まだ年賀状を書いてないという謝罪が書けないから、日記に書くことがない」とためらいを覚えるほどでした。

顧みれば昨年最後に日記を書いたのが四月みたい。
という事は、そこからなら引っ越しとか色々色々してるけどね。でもそれを宇宙に知らしめたいかって言われたら、私が引っ越ししたかどうか、ネット上ではだいぶんどうでもいいしな。

そんなどうでもいい私が、何故、今日、日記を書いたのか。

今日という日は私にだけ現実的に意味のある区切りですが、そんなことより先日本屋でラッセル・ブラッドン「ウィンブルドン」の文庫本を見つけて「全米オープンの錦織君のせい?」と思ったからなんですよ。

密林で検索したのが正しければ、1979年の新潮社版が日本初翻訳っぽいですね。この時の池央耿翻訳を延々と使いまわしてるらしい。
私が読んだのは、図書館の書庫にしまいこまれていた1982年の新潮社単行本版なんですけど、その時にもう古本でしか購入できなかった気がする。それが田舎町の書店に見たことのない表紙の文庫本で並んでたものだから「これは絶対錦織君のせい!」と思ったわけ。
だって、見たら出版社が変わって創元推理文庫から昨年の十月に出てるのよ?タイトルからして、ずばりウィンブルドンでどこをどうひっくり返しても絶対テニスが絡んでる小説だとわかるし。夏に日本国内でテニスが盛り上がった勢いに合わせて出したんちゃうんかと思ってしまいます。いつ版権を手に入れていたのか気になる。

どういう小説かというと、私の儚い記憶によれば全体の四分の三ぐらいがウィンブルドン決勝の試合のシーンだけで埋まってるサスペンス小説なのよね。

レビュー評価が結構みんな高い。

サスペンス小説としてそこまでの緊迫感があるか、そこまでの傑作かと言われたら、個人的には多少疑わしく思うのですが、全体としてのバランスと出来がよくて完成度が高い感じがする事は確か。私はミステリーというか推理小説は結構好きだけど、サスペンス小説はそんなに好きじゃなくてあまり読まないから、サスペンス小説としての素晴らしさがわかっていないのかもしれない。

ただね、この小説はハラハラする。それは確か。別の意味でハラハラする。

あとがきに「サスペンス小説としてだけでなく青春小説として」みたいに書いてって、私は即座に「嘘でしょ……!」と全力でツッコミを入れました。

あんなに見ていて居た堪れない青春があっていいのでしょうか。違う。青春は須らく居た堪れないものなのだから、その言い方では私の言いたい事が伝わらない。

そうですね、この作品に主な登場人物は二人しかいません。世界は二人のもの。この世界には二人以外いない。二人以外はモブです。その二人というのは、ウィンブルドンの決勝を戦う事になった二人です。
旧ソ連から亡命した若き天才ヴィサリオン・ツァラプキンと、オーストラリア出身で世界ランキング二位のゲイリー・キングです。ツァラプキンが亡命してきてからというもの、この二人がキャッキャキャッキャして、イチャイチャイチャイチャしていて、キングのツァラプキンへの眼差しがなんだか性的で居た堪れないし、ツァラプキンのキング大好きっぷり、依存ぶりが恥ずかしくて目も当てられない。

「事件に巻き込まれたがために、決勝戦の真っ最中にすれ違った二人の心は、決勝戦の真っただ中で再び通じ合う事ができるのか……!」というハラハラの記憶が強烈すぎて、サスペンスのスリルなんて忘れました。ボールで語り合い、ボールで喧嘩をし、ボールで謝罪して、ボールで仲直りするので、読んでてなんだかテニスの王子様あたりを思い出した事を思い出します。

ちなみに決勝戦の前は自信に満ち溢れて押しの強いキングが攻で、まだちょっと線の細く繊細なツァラプキンが受みたいな描かれ方なんだけど、決勝戦を経て、葛藤の末、ツァラプキンは大人びて成熟した攻になります。
そう、ツァラプキンはキングを愛するが故に攻になっていくの。
個人的に年下攻めの方が好きなので、「ああよかった」と思いました。(確かツァラプキンの方が若干若かった気がするのよね。青年のキングと少年から青年になりかけのツァラプキンみたいな感じだった気がするのだが。キングが世界ランキング二位として自信があって実力者としてドシッとしてるものだから、読み始めは、むしろ若干オッサンなりかけのキングが世間知らずの家出(亡命)してきたかよわいツァラプキンを囲い込んだかのような、いけないものを見ている気持ちになった)
このツァラプキンが受から攻にクラスチェンジしていく様が青春小説ということになるのか。

そういうわけで、私の印象では今風に言うと全力でブロマンス小説だったのでしたが、まっとうなファンがこの日記を読まないことを祈ります。


やぐちまさき |MAIL