非日記
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| 2013年10月08日(火) |
傍目八目ロマンス小説を読む。 |
気がついたら半年どころではなく時が過ぎ去っていました。 仕事は例によって色々あるわけですけれども、仕事の話なんかできませんものね。
それで私のストレス解消は昨年末ぐらいから延々と、主にハーレクインと少女小説ざんまいだったわけです。ちょろっと普通の(?)ライトノベルも読んでたけど。 齧っちゃ止め、齧っちゃ止め、偶に全部読む、という感じだったので、正確にはどれだけ読んだかわからないけど、自分の好みというのが少しはわかるようになりました。 いや、前からわかってたけど、明らかな好みがわかるようになった。つまり、私はハッピーエンドの恋愛小説ならなんでもいいわけではないと。そしてイラッとする恋愛小説は面白いと感じられない小説と同じくらい読んでてつらいと。
そんな事、人は当たり前だと思うのかもしれません。 でも私には新たな発見だったのよ!
まずハーレクインをこれだけ大量に読んだ事は無かった。人の書評を読んでて「ハーレクインを思い出した」とか「ハーレクインっぽかった」と書いてあった時に、「いいや、ハーレクインはこうじゃないんだ。ハーレクインは……」と独自の見解を述べられるぐらいにはなった。 あと「こういうのは、私はあんまり好きじゃないらしい」とわかるようになった。人様のレビューを参考にして自分好みを探そうとした時に立ちはだかる「私の趣味にあっていた」「私の趣味と違っていた」評価があります。「そうは言っても、おまえの趣味を私は知らないから、おまえの趣味が私の趣味とどういう関係なのかがわからない為に判断の基準にする事ができない」という壁です。今まで悩まされてきましたが、私にも趣味らしきものがあるとわかると、おおらかな気持ちになれます。
私の趣味は、例えば以下の如し。 あ、ヒーロー、ヒロインというのは、ハーレクインや洋物ロマンス小説における、男女の主人公の事です。つまりカップルの男の方をヒーローと言い、女の方をヒロインと言う。和訳するなら彼氏と彼女かもしれないが、「恋人同士であるかどうかに関わらず最終的には絶対にハッピーエンドに至る事が初めから読者に確定している男女の各々を示す」言葉というのが日本語には無いので、気恥ずかしい感じが拭えないまま映画ターザンみたいな表記を続けます。
1.頻繁にヒロインとヒーローが一緒に同時にヒステリーを起こすのは止めてほしい。 2.気持ちが昂ぶったからと言って、それを表現する術が肉欲ばかりなのはいかがなものか。 3.人が何かを言おうとしている時には、偶には黙って聞いてみようとして欲しい。
以上は、私の、主にハーレクイン作品に対してよく巻き起こる不満なんです。 ご説明しましょう。
1について。 ハーレクインでは、非常に頻繁に、ヒロインとヒーローが喧嘩するわけですが、その時に非常に高頻度で生じる事態です。一方が嫉妬や疑念に駆られてヒステリックに相手を詰ります。するとそれに反応してヒステリックに応対。それに反応してさらに興奮。それに対してさらに……と、いった具合。そしてどうなるかと言うと、「もう何を言っても無駄!」「相手は聞こうともしない!」とこうなるんです。
「不満があるので、まず攻撃!」 「なんか知らんが攻撃を受けた!しからば反撃!」 「まさか反撃されるとは!?ならば攻撃あるのみ!」
なんで常に常にこうなるのか考えてみたんですけど、もしかして文化じゃなかろうか?自立した大人が欧米でどういう態度を成人として要求されるかを考えてみて、もしかすると、こうなるのが当然なのかもしれない。「不当だと感じられる非難を浴びたならば、とるものもとりあえず、まず断固とした抗議をせねばならない。不当な叱責に対して謝罪など断固してはならない」みたいな。相手が興奮している時に、とりあえずお互いに冷静になる為に、自分は悪くなくても潤滑剤的に謝ってみせるとかありえないんですよね、そう言えば。「謝ったら自分が悪いと認めた事になるから終わりだ」って言いますものね。 でもイライラするー!「バカなのか、こいつらは?」と思わずにいられない。いきなり罵りながら非難するというのもどうかと思うけど、罵られたからと言って早速にも罵り返すとか。ハーレクインを読めば読むほど、根本的な価値観や美意識の違いを感じないでもない。
てゆうか、ちょっと脱線して職場のおばちゃん達の事とか思いだす。十人に三人はこういうのがいる気がする。半分ほどというわけではない。でも確実に良く見かける。自分が非難されたと「感じる」と、即座に興奮!みたいな。指示された事と違う事をやっていて、そうじゃないと注意されると、即座に「でも!」と反論。注意に反発ぐらいならまだマシな方です。質問や確認にすら反発するタイプになると大変です。どうにかしてくださいと言われても、私にはどうにもできません。 こういう方と比べると、私は正義感に乏しいのだなと思います。教育係?として途中で投げやりになり、私は「相手が間違っていても、すみませんと頭を下げろ」と言いました。おばちゃんは憤って「相手が悪くても私が謝るんですか!」とブチ切れましたが、私は「そうだ」と断言しました。私の見たところ、その事態のうち三割はおまえが間違っており、その事態のうち三割はおまえが業務の要求水準を満たしていないという説明をし、納得させることを放棄したのです。客観的に見て、私はなんて邪悪な人間でしょうと思うが、しかし反省はしない。正しさが人を幸せにしたことなどあっただろうか。正しく生きる事は思春期に止めたのである。 しかし勿論正義感あふれる直情型のヒロイン気質であるおばちゃんは私の忠告など聞きません。影ながら嫌われていますが、影ながら嫌われてるぐらいなら問題無いだろう。
「女はヒステリックで直ぐ興奮して人の話を聞かず頭も空っぽで」とかとかハーレクインのヒーロー諸氏は当初よく女を嫌っております。「そんな女いねーよ」と昔の私は言ったかもしれませんが(だって基本的に、私の友達は皆賢いし!自慢だけど)、今は微妙に納得します。なるほど、そういうのもわりといる。 私も割合に頭が空っぽなので、人の事は言えませんけれども。主にまんじゅうちゃんの事しか詰まってませんから。
脱線したが、
2について。 ハーレクインはイチにセックス、ニにセックス、三四がセックスで、五もセックスです。セックスは性行為という意味だけではありません。ようするに、性!男性的である事、女性的である事、性的な魅力がある事、性的に訴えかけてくる強烈な何かがあるという事。よって、たいていの場合、一目惚れです。一目惚れでない場合、途中で突然、相手が性的に強力な魅力の保持者である事に気付きます。美男美女に限りません。ハーレクインの大半は美男美女で、尚且つ、少なくとも片方は社会的に成功した非常に高いか、もしくはある程度高い地位をもった相手ですが、ごく稀にそうでは無い場合もあります。平凡なとか、完璧な美貌とは言い難い……みたいな。でも性的な魅力はあります。もしくは発現します。これは絶対。 どう読んでも、知性とかウィットとか品性とか優しさとか高潔さとかは、「思いがけないお得なオマケ」感が拭えない時があります。これは私だけではないみたい。人様の感想やレビューでも、「この相手のどこがいいのかが全くわからない。いいのは顔だけだろう」みたいなのはよくあります。 「どれだけ熱烈にセックスしたいか、衝動を抑えられないほどセックスしたいか」が真実の愛の基準にしか見えない事がよくあります。だからヒーローがどう見てもセクハラ魔、どう見ても痴漢な場合もよくあります。……しかし、真実の愛って何って聞かれたら、もしかするとそういうもの(性衝動の強烈さとその持続性)なのかもとも思うので、小説だし、あまり文句は言わない。何に文句があるかというと、ハーレクインではよくあるのですが、一目見たその時からヒロインとセックスしたくて堪らないヒーローが、これは愛情では無くてただセックスしたいだけだと公言したり思いつめたりしたあげくに、最後らへんで突然豹変して、「実は愛していた事に気付いた」と言いだすところです。意味がわからん。何がどう違うのかわからん。全くわからん。
しかしハーレクインにもいいところがあります。それは、ヒーローもヒロインも共に、自分が相手を愛してないと思ってる時には、絶対に、口が裂けても、断固として、愛してると言わないのです。どれだけ窮状に追い詰められても、別れる寸前まで行っても、別れても、別れて後悔してても、どうにかして相手を繋ぎとめようと七転八倒してても、自分が相手を愛してないと信じてる時には愛してると言わない。ただ一言愛してると言いさえすればいい時でさえ言わない。この一言を言わないが為に拗れまくっても言わない。この一点において、意味のわからない「愛してる」の告白に問答無用の威力がある。 偶に証明の必要にかられますが、それもこれも大抵は「愛してなどいない」と頑なになったがために相手にわかるように好意を表現する事を無駄に自粛し続けていた自業自得であって、「そのあなたの言う愛って何なの?」みたいな哲学的な問題には発展しません。「あなたが愛しているという事が信じられない」のであって、「あなたの言う愛ってものがなんなのか意味がわからない」のではありません。
私が思うに、これが日本の少女向け恋愛小説や、日本の恋愛小説と、欧米の成人女性を読者対象としたハーレクインの大きな違いです。向うの人間は愛が何か、どのようなものかを最初から知っているのがほぼ前提であるのに対し、日本の恋愛小説は非常に頻繁に愛が何かを探し続けています。日本の恋愛小説では、大人向けでもそうです。大人向けは、なおそうだと言ってもいい。日本の恋愛小説では、愛してると口に出したからと言って愛は証明されないのです。だから日本の少女向け恋愛小説は告白するまでにネチネチといちゃつきます。「これだけやられれば、どんな阿呆でも流石にAはBをとっても好きなのだとわかる(読者には)」ところまでやってから、おもむろに告白です。出会ってから険悪でついさっきまで青筋立てて怒鳴り合っていたのに、その一瞬のすきを突いて突然キスなどして、「キミがエロかったから」などと言っても駄目です。読者は抑えがたい恋情の発露などと思いません。ハーレクインはよくこういうものがあると知っていなければ、厳然たるただの痴漢です。
3について。 ハーレクインの拗れる原因は、主にこれです。相手が話したいと言っても聞きたくないと言う。相手が話そうとするのを遮って自分が言いたい事をまくしたてる。相手が話し始めるのを待てない。相手が話している途中で激昂して最後まで聞かない。などなど。 一冊や二冊ならまだしも、大半がこうなので、たくさん読むと嫌になります。
ハーレクインってそんなに売れてるようにも思えないのだが、その原因は私自身がかつて読む前に物凄く偏見をもっていたからかもしれない。ハッピーエンドが約束されてる分もあって、男女の色恋沙汰を描いた乙女チック小説って感じが拭えないというか。その通りなんだけど、読む前に思ってたのと何かが違うと思い、その原因はヒーローが意外と「王子様でない」とせいかもしれない。王侯貴族じゃないという意味じゃなくて、いわゆる「王子様」でない。十中八九は欠点だらけのどうしようもない男が多く、欠点の主なものがしばしば性格である事です。
そういう具合に、読んでみると想像してたのとちょっと違うハーレクインなのだが、現実に周囲に読んでる人もなかなか見つからない。でも本屋にはワンコーナーあったりするよね。その原因は、ハーレクインを好きな人は、まるで推理小説好きが推理小説を大量に読んだり、SF好きがSF小説を大量に読んだりするように、ハーレクインというレーベル、出版社の翻訳小説を一人で大量に読むからです。見たところ、百冊や二百冊読んだくらいじゃひよっこであります。大御所の作家は、一人で百冊ぐらい書くからというのもあります。作家自体も大量にいるし、一人がかなり沢山出すので作家を追いかけだしたら大変な事になる。 でもどうやら日本の翻訳本は抄訳っぽい。大抵は薄いので、直ぐ読めます。まあ、直ぐ読めても、話の大半は喧嘩してるかセックスしてるんだけど。読みこみだすと、この翻訳家ははしょり方が下手とか、この人の翻訳は安心して読めるとかあるらしい。
あと、確かベティ・ニールズだったかな?その作家のファンの話は面白い。件の故ベティさんは、似たような設定の似たようなキャラの似たような話ばかりを量産した人らしいのだが、同じような話ばかり読んで何が面白いのかと思いきや、ファンになっちゃうと面白いらしい。何が面白いのかと言うと、これは筋は作品Aと同じでヒロインは作品Bの焼き直しだとか、筋は作品Cと殆ど同じだがラストが作品Dから引っ張っているとか、そのやりくりというか、物語の面白さというより「ベティ作品を読みこんでいく」という面白さがあるらしい。
作家の誰それはヒロインにこういう傾向があるとか、作家の誰それは、これこれの舞台が好きで得意だとか、作家の誰それのヒーローは大抵こういう行動をとるが、この作品では違った!とか、そういう読み方や選び方もしたりするらしい。大量に読んでこそ、マンネリがゆえの驚きとかあるようだ。
こういうのはちょっと面白いなと思う。 普通、一度作家として出版した人が次に似たような物を書いたらマンネリと言われるけれど、一人の作家に対して一つの期待されたパターンがあるのよ。この作家のパターンが好き、だから次も同じ感じを期待するみたいな。この作家のは自分には合わないから、もう読まない。でもこの作家のは好きだから、次も読む、みたいな。 これは「結末は絶対にハッピーエンドだと決まっているロマンス小説」だからこそって感じがする。好きな恋愛パターン、好きなヒロインのタイプ、好きなヒーローのタイプ、好きなシチュエーションが、重要なのよ。どんな恋愛模様でもどんな登場人物でもいいわけではない。好みのパターンがあって、それに合致している事が意外性や新鮮さより大事で、好みじゃない物は断固好みじゃないのだ。
水戸黄門とかと同じ。水戸黄門が最後に印篭を出して解決する事はわかっている。水戸黄門が暗殺されたり、視聴者の予想を裏切って助さんが裏切ったり、角さんが悪事を働いたりする事を期待しているわけではない。でも水戸黄門や助さんや角さんを誰がどんな風に演じるのか大事。似たような話を繰り返し見るのが嫌なのではない。なんか違う黄門様が嫌なのだ。
男性向けエロのサーチ分類との共通性も感じる。 ハーレクインにもシチュエーションとか、ヒーローの職業とか、時代設定とか、サーチの仕方があるのです。例えば、舞台はアメリカとかイギリスとかが多いんですけど、ヒーローの人種には特徴的な傾向がある。アングロサクソン系かラテン系かみたいなのです。ちなみにベティ・ニールズの描いたヒーローは殆どオランダ人らしい。十中八九は白人なのですが、稀にネイティブアメリカンとか珍しいのがある。ラテン系なら、スペイン人やギリシャ人が人気です。フランス人やポルトガル人じゃ駄目で、スペイン人かギリシャ人がいいらしい。何しろスペインには貴族がいます。フランスにはもういませんからね。ギリシャ人は現代の世情だと「おや?」となるが、あちらでは以前、大富豪がいる事で有名だったようです。 同じ上流階級富裕層であっても、先祖伝来の王侯貴族がいいのか、成り上がりの富豪がいいのか重要なポイントのようです。王侯貴族なら強引で傲慢だけど優雅で品があるわけで、成りあがった大富豪の家系なら強引で傲慢だが能力が高く頭がいいみたいな感じです。 読んでる方には頭の良さとか見えないんだけど。
(金持ちしかいないわけじゃない。コンテンポラリー(現代もの)なら、結構色んな職業のヒーロー、ヒロインもいる。ちなみに、ベティ・ニールズの一押しは医者らしい。「オランダ人医師、ほぼ一択」らしい)
……なんでいつも強引で傲慢なんだよと思いますが、一見強引で傲慢に見えるのがあちらの男性らしさです。あちらの女性像は好悪をはっきり言います。相手を傷つけないように……などと言って、有耶無耶に誤魔化したりしません。コンテンポラリー(現代もの)になると激しくなって、「セックスはいいけど結婚はしない」とか「愛してないけど、子供だけ欲しい」とかガツンガツンと言います。一度や二度「あなたなんか大嫌いよ!」と言われたぐらいで凹んで引きさがっては話も進みません。まあ、だからこそ、稀に出現する穏やかで冷静な男性像が極端に個性的に見えますけど。いや、よく「冷静」ってなってて、運命の恋の所為で生まれて初めて冷静さを失ったって書いてあるんだけど、その普段の冷静ぶり、読者には知る由もありませんから。どこが冷静やねんとか、どこが知的やねんとつっこみまくりですけど。 ちなみに、包容力のある穏やかな男性はよく年の差カップルで出ます。ヒロインが二十代で相手は四十代とか。しかし向うはロリコン断固反対なので、子供の頃に知っていてヒロインは延々と片思いしていても、ヒーローにはその気はありません。身も蓋も無いが、ある日突然、「この女で抜ける!」と思った瞬間から恋が始まります。これはどうよと思いますが、しかし比較して、源氏君と紫の上が正常でまともかと言うと、いやそれもどうよと複雑な心地です。
比べてみると、日本の少女小説のヒーローは凹み過ぎで引きさがりまくりです。優しさの発露かもしれませんが、こういう人間は外資で栄達する事は不可能と見做されるものとわかります。日本の男性らしさは無言の優しさに集約されます。ハーレクインのヒーローのように、「キミを守ったのは私だと認めろ!感謝は無いのか!」と断固とした主張を怒り狂ってしたりなどはしません。私ならこんな押しつけがましい男は嫌だと思いますが、ヒロインはヒロインで「私はあなたがいなくてもやっていけるわ!」とカッカカッカしてるので、どっこいどっこい。
穏やかに愛情を育むとか、探すの大変です。ハーレクイン。
でも最近、日本のライトノベルというか、ティーンズノベルの中で、恋愛小説で性行為までが描かれるものが出てますよね。ティーンズラブとか言うみたい。商業小説のエロ描写を面白いと思わないので、どんなものか興味を抱きつつ未だに読んだ事無いんですけど、少女小説のハーレクイン系みたいな気がする。恋愛感情と性衝動と非常に近しく近似値で結んでて、日本も欧米化したなという気もする。強姦とか調教系とかあるみたいだものね。本屋でざっと見てたら、元々BL小説書いてた作家さんが転身してたり、両方書いてたりする。その辺考えてみると、耽美じゃなくてBLってのは、いわゆるとってもハーレクイン的だったと思う。愛のなんたるかを云々しない。性衝動がきっかけになって、開き直ったり煩悶しつつ恋着に至るところとか。耽美小説にはゲイ小説みたいな雰囲気があるけど、BLには無い。
久しぶりに日記書いて、色々言ってみましたけど、まあ、ハーレクインや洋物ロマンス小説は図書館に行ったらいっぱいあるので、ただで色々読めます。 そこで、個人的に、これは面白かったというものをメモってみましょう。
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