非日記
DiaryINDEXpastwill


2008年05月01日(木) 四月を飛ばしてしまった。

気がついたら四月を飛ばしていましたよ。
ちなみに延々やってるゲームは、今これしかやってないのにまだ真ん中あたりっぽいです。好きな子にばかり構って鬼のようにリセットしつつ、セーブ画面を見ると大体60時間チョイぐらい。仕事のある平日に一日1〜2時間するので、大体そんなものなのかもしれないな。ちなみに休日は滅多な事ではしません。おまえは休日何やってんだよとよく言われるが、それは秘密です。主に目を閉じて瞑想してるってゆふかね。

しかしそれに気がつき、「あれ?ゲームって大体60時間から70時間ぐらいで終るんじゃないの?」と思ってしまいました。それは昔のRPGの話だろうか?

私はゲームを始める前にはそれがどれくらい時間かかるものなのかを漠然と推し量り「それだけの時間をコレだけに費やすのかよ…」と思っては、ゲームをするのがなんとなく嫌になるというダメ人間なのです。ちなみにビデオを見るのも、必ずパッケージで何時間あるものかを確認し、「これを見るために180分を捨てるのか?」と問答してはよく見る前に嫌になります。ついでに本を読むにも「これは四時間はかかるな」とかよく読む前に嫌になります(速読できない)が、細切れでもOK、好きに中断できるところが本のなんか良いところです。厚さがあるので進行具合がアナログに一目でよくわかり、喩え一日十ページぐらいしか進まなくても地道な積み重ねによって段々栞の位置が移動し、「少しずつだが確かに進んでる」ことがわかるのが凄くよいです。どんな退屈さにも「いつかは終る」という希望が持て、読み甲斐があります。
そういう意味では、ビデオテープの方がDVDより良かった。デッキに入れて再生したら即座に続きが見れた。DVDではどこまで見たかを探すのがまずメンドクサイ。

私は時計もデジタルよりアナログが好きなんですよ。好きなんですよというか、デジタルだと時間が全然わからない。今何時何分なのかはわかっても、一日24時間のうちのどの時点なのかとか、一日の内の何割ぐらいが過ぎたのかとか、あと何パーセント残ってるのかとか、そういうのがデジタル表示だと感覚的にさっぱりわからんのです。私は断言しますけど、特に嫌な事や退屈さというのは、それが後どれくらい続くのかがハッキリわかってる時とよくわからない時では、我慢強さが全く変わってしまいます。

なんの話をしてたかしら。
時計はアナログに限るって話だ。私はそう思う。
幼子に時間の計算を教えるお母さんが、どうやって教えればいいのか困っていたので、私は目に入る位置に時計を置く事を絶賛おすすめしておいた。大体時計の計算は難しいのだ。十進法と六十進法と二十四進法と三百六十五進法?が交じり合っていて、自分でもよくこの最難関を乗り越えたものだと後になったら思う。だって考えてもごらんなさいよ。十秒の次は十秒プラス一秒で十一秒となり、ここは十進法なんだ。なのに六十秒になったら、次は一分と一秒なんだよ?「ちょっと待て。今何が起きた?」って感じだ。一分が六十回で、一時間になる。なのに一時間は二十四回で終りなんだよ。次の日になるんだよ。しかも十二時になると一度リセットされ、十三時は一般に一時と言われるんだよ?凄すぎるね。しかも子供にとっては寝ている間にゼロ時が来ているんだ。知らない間にスタートしている。目が覚めたときがスタートとかならまだわかりやすかろうものを。

昔、遅れまくった中学生に小学校の算数を教えていた事があるが、こういう基本的な事のほうが教えるのは難しいのだ。四則演算の法則とか。何故掛け算と割り算の方を足し算と引き算より先にするのか、私はいまだに上手く説明できない気がする。私はここはスルーしちゃったんだよ。最初はカッコの使い方をやってたような気がする。
5+2+3+5=15なんだが、(5+2)+(3+5)=7+8=15なんだ。で、掛け算や割り算が間に入ってくると、そこをカッコで括って先にやり、掛け算や割り算の場合はカッコはなくてもそこを先にやるという風に教えられたような気がする。
なんでカッコの説明があるかというと、カッコは掛け算や割り算の混じった計算をどう解くか説明する時に重要になるからだ。掛け算は実は「ここで足し算をせよ」という指示だからだよな。「2×3=(二を三回足せ)=2+2+2=6」なのよ。乗算は足算の省略なのは確かな気がするが、割り算は引算の省略にならないところがつらい。ともかくつまり、「5+2×3+5+4」てゆうのは、「5+(2×3)+5+4」で、つまり「5+(2+2+2)+5+4」だ。答えは全て20になる。

…だよな?
トシもトシなので自信がなくなってきた。
以前、「分数のわからない大学生」とか「少数のわからない大学生」だかなんだか言う本が出てたが、馬鹿野郎、分数や少数はそんな生易しいものじゃないんだ!と凄く思いましたとも。概念的には数学より算数の方が絶対に難しいと思います。人類の叡智を困難さを感じずになんとなくでスルーできたからこそ安々と大学生になれるのであって、ナチュラルに芯から理解できるのなら天才数学者にもなれようものだ。「正解が出せる事と理解してる事は違う!」と私は思います。人に教える事が難しいのは理解していなければならないからだ。

以上のように流れるために、「カッコ内を先に計算する」という説明があったように思うのだ。
割り算も大体これと同じだが、6÷3の意味は「零になるまでに六から三は何回引けるか?」で、それは「三を何回足すと六になるか?」だ。そう思うと、学生時代は割り切れないものをすごくナチュラルに小数計算していたが、これは一大事な問題だ。冷静に考えると「2÷5とか、どういう意味よ?」と思わないか?最初期の解釈で行くと、「五を何回足したらニになるか?」だろ。「何回足そうがなるわけねえだろ」が正解だ。ところがこれが「0.4」という答えがちゃんと出るのだ。自分で答えを出しながら、「今、私、何をした?」と不審に思う。「0.4回足す」とか「0.4回引ける」ってどういう意味だこりゃと、私はいまだに思う。おまえ、これ、説明できる?

えとな、二を十回足したら二十になるんだよ。もしもニじゃなくて二十だったならば五が四回も引けたのになあ、残念でならない…という切なさが表現されているんだ。0.4にはな。もしこうだったらというやりきれなさでニに十を掛けてみたんだけど、でもそんな事は現実には無かった事なのだから後でさっき十を掛けてみた事をなかった事に修正してみたんだ。だがそんな切なさとか遣る瀬無さとか口惜しさとか後悔とかいう大人っぽい気持ちは幼児にはわからんだろう。これは大人にしかわからない数字なんだよ。
…とか言って誤魔化したい。

ある数字を掛けた後に同じ数字で割ったなら、それは何もしなかった事になるんだよ、ミステリー。宇宙の神秘だ。一度やった事をしなかった事にするなんてSFの世界だよ。
2×10÷10=2を日本語で説明するとどうなる。2×10はニを十回足せだろ。そしてそこから十は何回引けるかだろ。…………今凄い事を思い出した。ニを十回足すのと十を二回足すのは同じなんだ。何故だ。二つのみかんが十組あるのは二十個だが、十個のみかんが二組あるのも二十個だからだ。頭の中でみかんがころころ…おま、ちょっとそんなに動くなよ。なあどうして最初から二十個みかんが並んでいてはダメなんだ?
嗚呼、でもそうなのよ神様、私は夢見て望んだのよ。一度現実に起こった事が最初から起こらなかった時と同じ結果にするためには一体どうすればいいのかって命を削る思いで凄く考えたのよ。それは不可能ではないはずだ。諦めてはダメ。冷静になるのよ。きっと道はあるわ。二を十倍した後にそれをしなかった事にする手段が!だから私は十で割ったのよ!そしたらどうしようもなく0.4になったわ。どうしようもなかったのよ。

てゆうか、これはまず少数の概念がわからないかんのかな。
確か数直線を習うのよ。で、自然数の一を十等分したうちの一目盛りが0.1なんだよ。その四つ分が0.4だ。0.4を五回足すと二になるんだよ。つまり2÷5が「五を何回足したらニになるか」でも「ニから五を何回引けるか」でもなく、「一体何を五回足したらニになるのか」に意味がチェンジしてるよな。問題は割り算の記号÷が意味するところなのか。元からそうだったのかな。でも最初に6÷3とかを教えられてた時に「一体何を三回足したら六になるのか」なんて考え方してたか?私が思うには、「六つのみかんを三人で分けるには?」みたいな考え方だったような気がするんだが。どこかで凄く抽象的な思考に入れ替わったのよ。どこで。いつだ。

まず割り算は自然数で割り切れるやつからやっていったのだと思う。6÷3とかな。それから5÷2とかをやったねん、たぶん。五からニを何回引けるかと言うと、二回は引けるのだが、もうそれ以上引ききれない1が残ってしまう。そこで「5÷2の答えは『2…あまり1』と書いて表す」とやったような気がする。
…すげえ、私、よく覚えてるな。今思い出したんだけど。少数が出現するまでそんな事書いてた気がするよ。私はこの数字と記号が並ぶ中に、突如日本語が出現するのが気に入らなかったんだ。センスが無いだろ。めっちゃ恰好悪い。はやくこの「あまり」を抹殺したいよな。日本語をだらだら書く証明問題なんかとは感覚が微妙に違うのよ。数式の中に数式の回答として数字と並んで一緒にいるのが気に入らない。しかも平仮名!なんかムカつくので私はいつも「余り」と漢字を混ぜていた。
ここから少数への飛躍が凄いねん。60階建てのビルとビルの間を意を決して飛びましたみたいな飛び方をするんだよ。この、「2...あまり1」がイコール「2.5」になるという衝撃。「おい、今何が起こった?」と思うだろ。どう考えても割り切れなかったはずのものを、割り切ってみせやがった。自然界でありえない事がおこった。
割り切れない自然数を割り切って人は中学生になり、割り切れない気持ちも割り切って人は大人になるんだよ。

私はこの小数計算の、自然界での解釈がいまだにあやしい。
たとえば、ここにピースのショートケーキが二つあるとする。これを三人で平等にわけたいのだが、さてどうする?せっかく小学校でお勉強したのだからと算数で計算すると、2÷3=2/3=0.6666…だろ。下三桁を切り上げて0.67か。0.67個のショートケーキって何?どんなもの?凄い事になるよ。これはな、1ピースを一とするんだよ。それを十等分したうちの一つが0.1ピースだ。その0.1ピースのショートケーキをさらに十等分、すなわち、最初の1ピースを百等分した一欠片が0.01ピースだ。つまり二つのショートケーキを二百ピースに分割する。そして三人で一人67ピースずつとれば大体平等になる。が、残念ながら、一人だけ66ピースしかもらえないやつが出る。いいのよ、ママはあなたたちが幸せならそれでいいの。大人だから66個で我慢するわ。
しかしそれ以前に、なんでケーキ一つ食うのに、1ピースのショートケーキを百に分割しなければならないのか。どこの最先端企業のケーキナイフだか知れないが、殆ど不可能と思ってよいだろう。まちがいなくぐちゃぐちゃになっているので、いっそ重さで分割したい。重さなら割り切れる数字になっているかもしれないだろう。何、イチゴを正確に等分して欲しい?仕方ないわね。何、生クリームとスポンジも正確に等分にしろ?いいかげんにしろ。もうママが一人で食べる事にします。お前達はきゅうりでも齧ってろ。

それだったら分数の方がわかりやすいし簡単だよな。三分の二個というのは、1ピースを三等分して、それを二つずつだ。二百ピースにも切り分けなくてよい。
「割り算で割り切れないのを一々少数で計算するのは大変だから、別に計算する必要の無い時は、わかりやすくこう書きましょう」と、分数が出たときに「まあ便利!」と思った自分に呆れるね。でも現実問題として、少数計算しながら答えを出していくより、式の間は分数計算して最後に小数に戻す方が楽は楽なのだ。大体少数は割り切ったような顔をして、実は割り切れてないことが多々あるところが気に入らない。
それならば割り切れたとか割り切れないとかそういう事はお構い無しで、そんなの俺には関係ないねな分数の方がいっそ爽やかさを感じる。矛盾を内包しつつ矛盾を問題視しない奥深さがいい。クールだ。
...最大の難問は、何故に人類は一を十等分したのか、だ。

なんの話をしようとしていたのか忘れたが、まあいい。
それに躊躇いを感じるから日記が書けなくなるんだよ。
ああそうだった。六十時間も地道にゲームをするなんてエライわねと自分で思ったんだ。で、それは基本的に「何気ない部分が楽しいからだよな」と思った。同じ会社の似たようなゲームでも前はこんなに楽しかった覚えが無いのは敵のせいだろうと思う。
敵が、つまりモンスターだが、色々喋るわけよ。特にオス(?)はよく妻の事を言う。それがハーレクイナーとしてはコバルティズム的に楽しい。よくオスは何故か妻に呼びかけながら死んでいくわけだ。なんちゅうかたまらんですよ。妻を思ってみたり、妻を庇ってみたり、妻の為に怒ったり、妻に済まながったりするところを見たくて、つい。
今のところメスには夫がいないっぽいんだがな。何故だろう。


そういえば今度居眠り磐音がドラマ化するらしい。
えーって感じだ。えーこんな顔?っていうエーだが、よく考えてみるとスタート時点で26か27だからこんなものなのだろうか。すげえ気の良い人っぽく見える。喋れば気さくかもしれないけど口数はそんな多くないイメージがあったんだが。
きっと見ないと思うんだけど、ちょっと見たい。一番最初のところの磐音さんが藩を出て行くあたりとか。


やぐちまさき |MAIL